純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

圧倒的なものに触れる。『悪は存在しない』

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 悪は存在しない、映画の言語化不可能性を存分に味わえる映画だった。すべてのショットと台詞がラストに結実していく。最後の森を人々が(まるで葬列のように何かを受け入れながら)歩いている場面で自分の脳裏にずっと「20年に一度の山火事が、10年に一度、5年に一度になるかもしれないんです」という言葉が響いてしまって恐ろしかった。そこには偶然しかないのかもしれないが、私達にはわからない。

 重たい水を運ぶ、薪を割る……二度繰り返されるこの動作、最初は「演技」として捉えていなかった人間の動きが新たにやってきた人物によって途端に巧妙な肉体の操作としてまざまざと見えてくる(見えていなかったことが判る)この反復と反転の鮮やかさに感動した。最後のアレに自分もガッシリ掴まれて映画から逃れられない、この感覚こそが映画の快楽に他ならないのだと思う。流れる水のイメージがいっときも確定しないのが恐ろしい。

 自分が一番感動した薪割りシーン、場内に笑い声が漏れていたし自分も楽しかったが、「気持ちいい!」と言った瞬間にもう戻れない気もしてしまって、女の人もあんなに水の話をした上でそれを口にしてしまうし、彼女のラストショットに霧のような煙が画面を覆っていくのがおそろしい。怖い森の映画の系譜というか、トトロとか、『秘密の森の、その向こう』とか、黒沢清のユースケサンタマリア短編とか、あのすぐそばにあっておそろしい森を思い出した。最後に現れる森は二人が想定していた森とは全く違うし、なんならあの「原っぱ」(区長から近づいてはいけないよと言い渡されていた)は観客が見てきた森とも全然違うし、これまでの言語が通じない空間だった。この辺は黒沢清の『カリスマ』とかも強く思い出してしまう。山の中の原っぱは怖い。

 『悪は存在しない』というタイトルと対になってそうな芸能事務所社長の「善は急げ!」という台詞と共に紙が天に吹き上げられる、あの空虚さと常に下に流れ続ける水。やっぱりあのチョークスリーパーは排除ではなく受け入れたのだと思う。東京のふたりのパートをずっとやったらエドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』とか『ヤンヤン 夏の思い出』になりそうだなと思った。トラウマ的な生を生きる人々たち。エドワード・ヤンの映画のどこかドキュメンタリーのようなカメラと台詞はこの映画でも強く現れていた。

 「善は急げ!」はタイムイズマネー的な(まさしく時間がお金に変わる給付金の話だ)時間を生きる都会の人間の言葉だが、一方で主演の一人であろう巧は「時間、忘れすぎですよ!」と冒頭で言われているように時間の概念を半ば喪失し、何度も繰り返される森と町を繋ぐ道を往復する人間だ。どこか言語を喪失し、再び取り戻しつつある段階にも見える。冒頭とラストの森を見上げたまま動いていくカメラは時間を失って移動する空間によって生きる彼の世界の象徴なのかもしれない。濱口映画によくある車に備え付けられてハンドルを切り返して駐車場に入っていくようなカメラの動きも、空間性を強く意識させている気がする(この辺は観た後に考えていたところだから自信はない)。

 その中で巧が規定して動く空間を逸脱し、撹拌するように彷徨う花ちゃんの動きが本当に映画的な冒険に満ちていて素晴らしい。牛の堆肥が発酵して蒸気を吐いているところに花ちゃんが鼻を摘んで入り込んでいく場面、あまりにも堆肥が巨大でそれがトトロみたいで、すごいワクワクする場面だった。一緒に観た友人は「チョークスリーパーは完璧に決まったら絶対に抜け出せない、それでいて優しい技なんだ」と言っていたが、自分はどこかゴダール的なラストにも感じつつ、この映画のすべてがあそこに繋がっている納得感に打ちのめされた。大きな世界、森のようなものに触れた瞬間のように感じたし、どこか動物を〆ているように見えて、やはり高橋はあの瞬間についに受け入れられたのではないかと思う。未知のものに受け入れられることは決定的にその生が変わってしまうことだ。そこに悪は存在しない。そして観客はこの言語化不可能な体験を無謀にも語りたくなる。そして私たちは首を絞められる……