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世界は語り直される。『マッドマックス:フュリオサ』

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 『フュリオサ』、一夜たち、昨日の自分がウォー・タンクのシークエンスに興奮していたのが馬鹿らしくなるくらい、しみじみと良かったな……前作に比べて長く感じるのはそのように語られているからで、あの"ヒストリーマン"がジョージ・ミラー監督の前作『アラビアンナイト』から同じ役柄で続投しているジョージ・シェフツォフだということを知り、あの『アラビアンナイト』もかなり語り口が複雑であったものの、『フュリオサ』は『怒りのデス・ロード』のように映像で語るのではなく、あくまで語り部の存在が明確化され、それが象徴性と即物性を合わせもったシークエンスで形作られているのだと思った。

 前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が『駅馬車』的なアクションによってマックスとフュリオサを描いていたのに対し、今作は複雑さや神話の人物の内面を語りきれない視点をそこかしこに持ちつつ(ディメンタスは外見と裏腹に奇妙に捻くれた内面が伺われる)、それでいて冒頭の"戦士"である母親など、英雄的な無言のアクション(行動)の積み重ねで描かれる人物もいる。大人気キャラ"オクトボス"さんは初期シリーズの暴走族の悲哀に満ちていたし、章立てによって分断されつつも語りそのものが変化していくダイナミックさがある。映画自身が失ってしまった語りの言葉を取り戻そうとしているような……

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 『フュリオサ』、もちろんあの中盤のウォー・タンク一台を取り囲むアクションシーンだけでもジョージ・ミラー監督の群像的なアクションを描く上手さには舌を巻く。むしろ前作『怒りのデス・ロード』よりも一台の車にフォーカスすることができ、さらに整理されつつも生起する出来事の組み立てが大胆で、あの"ウォー・タンク"の製造過程を見せていたのもこのアクションの下味だったのか!と感動するし、作り上げられたマシンが、どのように動き、どのように破壊されるのか。そもそもトラックの底から這い上がっていくフュリオサ誕生シークエンスとしても素晴らしい。あそこは本当に前作超えだと思った。

 前日に『怒りのデス・ロード』を見返して、これは運転席にいる人物が外の世界を睨み返す眼を中央に置くときに何かが起こる映画なのだと思ったのだが、今作のアニャ・テイラー=ジョイのその眼たるや。眼光そのものが人間になっているような、あのウォータンクのシークエンスに到達し、おでこをオイルで黒く染めたときに最大化されるあの眼。今作最もカッコいいジャックが引き継いできた目を細める"マックスたち"の目を打ち破るのは彼女の眼しかなかったのだと思う。

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 そして最初は悪役として弱いな〜とか思ってしまったクリス・ヘムズワース演じるディメンタス、観終わってみれば輝いていたのはその「弱さ」そのものであり、最初のテントのシーンで自分がこのシリーズで最も恐ろしく感じてしまったのは(幼いフュリオサがそこに連れてこられることももちろんあるが)、彼がこれまでの悪役の纏ってきた"威厳"から遠く離れて、どこか幼稚な暴力性を垣間見せていたからかもしれない。しかしそうしたイモータン・ジョーに代表される"威厳"こそが、弱者を抑圧するシステムを作り上げる家父長制そのものであったことを思えば、ディメンタスもまたこの荒野の忌み子であったように感じるのだ。ディメンタス、オクトボス、そしてジャック。この三人が神話性を剥奪されたマックスのように見える。彼らの死は無惨だ。しかし無惨に死を描いてくれたことがこの最新作の達成であったように思う。

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