純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

そして蛇が生まれた。『蛇の道』(2024)

f:id:is_jenga:20240623102757j:image蛇の道』(2024)、原点の『蛇の道』(1998)をソリッドに削ぎ落としつつ柴咲コウの役者の力を最大限に引き出すセルフリメイクの傑作。同じ物語を語り直すこと、舞台をフランスに置き直すことが禍々しさを増幅する。なぜこんな凄惨な物語が語り直されるのか?(凄惨さが原点から増したのか軽減したのかは観る人によって分かれるだろう)それは世界の残酷さが何一つ変わっていないからだろうか。

哀川翔にあったユーモアは削ぎ落とされ、一方でアクション場面の緊張感(柴咲コウの生々しい非力さがむしろ怖い)や「あの目」に漂う殺気はもう柴咲コウのためにこの物語はあったのだという凄まじいものだった。奇しくも自作のセリフリメイクの趣もあった『マッドマックス フュリオサ』でもすべての要はアニャ・テイラー=ジョイの「あの目」にかけられていた。監督が役者を信頼することそれ以上にその映画、その物語がこの演者を必要としていたような鬼気迫る感慨がどちらの作品にもあった。

そして驚いたのは黒沢清の観客を信頼した、サービスを削ぎ落としつつ物語の核を掘り起こすような実直な語り口。誠実だとも思ったし、何より監督が映画をここまで信頼して「これだけでいい」という判断をしている凄味を感じた。柴咲コウのあの目があればそれだけで『蛇の道』になるのだ。哀川翔の中にもこんな柴咲コウが潜んでいたのだろうかとすら妄想してしまう、ラストのあの目。画面の向こうには僕たちがいる。

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あと、原点との一番の違いは舞台をフランスに移したことや「新島さん」の職業を医者に変更したことではなく、やはりあの西島秀俊とのやり取りだと思った。なんならあの診察室が映画の中で一番怖いかもしれない。原点にその出番を与えられていなかった新しい人物、そしてあの西島秀俊のよくわからない独特な口調、アクセントの演技(自分はいまだに彼の演技が上手いのかわからない、そういう意味で『ドライブ・マイ・カー』の使い方も上手かった)。あれだけ意味深な、「世界の理」に触れてしまったかのような黒沢清キャラクターを演じさせておきながら、あの退場の仕方にはやっぱり虚をつかれたし、どこか原点で香川照之が演じていたトリックスター的なキャラクターにも感じた。どんなに凶悪な人間を前にしても怯まなかった柴咲コウ西島秀俊の前では理解不能な他者に対しての戸惑いを見せる……書いていて思ったが、あれは柴咲コウの心象風景なのか? どこか現実から遊離した、心地よい世界だったのだろうか? 考えているうちにわからなくなる。ここ数年の黒沢清映画ではダントツに不気味で素晴らしい作品です。

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