純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

難民問題SFゲームとして。『Citizen Sleeper』

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シチズン・スリーパー』、クリアした。『サイバーパンク2077』みたいな硬派な改造人間SFを『ディスコ・エリジウム』ライクの膨大なテキストで読めるという至福の15時間(106サイクル)。難民船団が到着してそれを受け入れるかを問うDLCが骨太すぎて、そこの新キャラ達が一番好きになってしまったな。

途中まで電脳世界の存在に気づかず「生活」すらままならない苦行プレイをしてしまったのだが、逆にデータを作り直して以降はサクサク進めることができて、題材や主人公のシリアスな状況とゲームプレイの簡単さの乖離を否が応でも感じることになってしまった。しかし反骨と連帯の物語は素晴らしかった。

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あとサイバーパンク2077以上にグッときたのは、キャラクターたちのセクシュアリティが多彩で、それがテキスト上で明言されないまでも色々な読み取りが可能になっていること。特に半機械半人間の主人公はお決まりのタイムリミットを抱えつつも様々な人物と友愛関係を築いていくのがとっても良かった。

 

縮こまった肉体に隠された欲望。『Saltburn』

f:id:is_jenga:20240223200942j:image 今年観た中で最もエキサイティングで最も面白い……お手本のようなパリー・コーガンの使い方。2時間を通して熱が迸っていくようだった。ロザムンド・パイク繋がりで『ゴーン・ガール』くらい面白いと言えば伝わるだろうか。

 バリー・コーガンはもちろん演技やその表情はもう観ていて全く飽きることがないのだが、今回改めてあの「体育座りみたいな縮こまった姿勢」になった時のインパクトの強さを再認識した。肉体が弛緩していたり縮こまっていたりする時に彼が演じる人物は何か非常な企みを抱いていたり頑なに防御姿勢を取っていたりする。彼が何かを隠し持っている人物を演じることが多い(もしくはそのように見えてしまう振る舞いが劇中においてもたまらなく魅力的に映る)のはその肉体のせいだったのかもしれないと思った。『聖なる鹿殺し』のパスタ食べる時の姿勢とか忘れられないもん。

 そして今作でバリー・コーガンが見せる抱擁とキスは、それが到達しない相手だからこそ、無機物に自分の肉体を磔にするような痛々しさと切実さがあいまって胸を打つ場面だった。下手したら今まで観たなかで一番好きなバリー・コーガンだったかもしれない。

 ちょっとだけ後半の展開に触れるけど、ヘレディタリーや家族ゲームなど、映画でしか見ることのできないものの一つに「最悪な状況で行われる家族団欒の食事シーン」というものがあるが、今作のそれはその中でも最高峰と言っていいものだった。大満足です。

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観るものの視線も改造する映画『哀れなるものたち』

f:id:is_jenga:20240223190647j:image ヨルゴス・ランティモス監督作品は好きかどうかは別としてどんどんやってくれ!という気持ちになる。

 女性の身体についての細かい言及(男達からまなざされる身体でもあるが......しかし)が多く、観ていて『バービー』を強く思い出した(ダンスバトルのシーン最高)。エマ・ストーンすごい楽しそうだったしマーク・ラファロがかなり良くてびっくり!あとすごい感動したのは屋敷の壁面や調度品を切り取った"抽象画たち"を映すエンドロール。見えている世界を「それが意味する通りに受け取らなくていい」というのはとってもクィアな視線という気がして、開放感に満たされたまま映画が終わった。あ、あと音楽がめちゃくちゃ面白くて、異世界アンビエントミュージックみたいなサントラをずっと聴いています。

 ヨルゴス・ランティモス監督、ここ最近で一番ハマってる監督かもしれない。一時期のレフン監督みたいな。一方でアカデミー賞取るかどうか注目されてるけど、去年のエブエブよりも狂ったビジュアルであまりにストレートな反権力、女性たちのエンパワメントを描いているから普通に取るんじゃないかと思う。自分が一番好きな監督作品は『聖なる鹿殺し』なんだけど、これとか『ロブスター』にあったブラックでシニカルな目線は鳴りを潜めているけど、それがエマ・ストーンと出会ったことによる陽性なパワーの影響だとしたら嬉しい。次作もエマ・ストーンと組むらしいし、なんとチャン・ジュナン監督の「地球を守れ!」をリメイクするという話もあるので、本当にこの先の活躍が楽しみ。

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映画はどこからやってくるのか?『瞳をとじて』

f:id:is_jenga:20240221154624j:image 映画を観ていて、奇跡というものはこのように起きるのかと感じたのは生まれて初めてだった。生涯でこんな映画体験をすることができるとは。前半こそ、このテンポで169分いくのか……と思って観ていたが鮮烈という他ない「海」が飛び込んできて(あのゴールポストは生涯忘れないだろう) 、そこからはもう海を目指して姿を消した登場人物のように海からの風に吹きさらされながらただただ体験するしかなかった。記憶をたぐっていくうちに言葉は消滅し、そこに残るのは指の言語と言ってもいいようなロープの結び方やあのアナの"呼びかけ"だけである。この台詞は特に「映画的記憶」としか言いようのない圧倒的な文言であり、これは記憶を巡る、そして映画として私たち観客を巡る(それこそ『ミツバチのささやき』冒頭の映画巡業車のように)、運動する「映画体験」そのものである。映画についての映画でありながら、圧倒的に個人的な作品であり、また同時にスペインを、「私たち」を、映画によってどのように語るか?という映画でもある。だからここには映画史のような正統性はないと思う。あるとしても、それは映画が作り上げてきた美の総体のようなものであるだろう。

 昨日観た『ミツバチのささやき』もそうだったけど、圧倒的な表現に晒されるとなんでこんなに怖く感じるんだろうか。個人的には生涯で最も奇跡的な映画体験だったので、多くの人に観てほしい。ただ、『ミツバチのささやき』だけは観てから行ってほしいと思う。

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記憶を再生する。『ミツバチのささやき』

f:id:is_jenga:20240221152639j:image ビクトル・エリセ監督が31年ぶりに新作を撮ったというので、その前に見返しておこうと思って観た……のだが、映画を観ることは記憶を失ない、忘れていたことを発見することだという体験にまたしても愕然とした(映画と記憶の話は『牯嶺街少年殺人事件』のパンフレットにあったコラムの受け売り)。

 古い映画を観て、感動して、何年もたってからまた見返すと、それを忘れていたことと覚えていたことが同時に浮上してきて、90分の映画の時間とそこから自分が過ごしてきた数年、または数十年の時間が溶け合っていくような気持ちになる。映画の内容についていえば、多分昔に見た時は大学生くらいだったと思うけど、こんなに怖い映画だったのかと驚いた。アナがフランケンシュタインを見る目はむしろ希望に満ちているが、その周りにいる大人たち、両親の表情の暗さ、家の中、食事の場面の暗鬱さ、そして子供達が駆けていく荒野、線路を疾走する機関車……スペイン内戦が収束したあとの暗黒時代が色濃く映し出されていて、観客はアナのキラキラした目にフランケンシュタインの向こうの残酷な世界がどんどん侵入していくことを追体験する。

 しかし、この作品が名画である所以は(名画と描くと絵画のようにも読めるが、全くもってこの映画の陰影は美しい)、やはり最後にこだまする「私はアナよ」という呼びかけであり宣言にある。この言葉は公開当時のスペインにおいてどのように響いたのだろうか。私はここにいる、ここに生きている、という呼びかけは映画という増幅装置を通して観客の心を揺さぶる。大きくも小さく、恐ろしいほどの強度を持った作品。こんなものを撮ってしまったら、それはたしかに他の作品を撮れなくなってしまうような気もする。

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母語を失うこと。岩城けい『さようなら、オレンジ』

f:id:is_jenga:20240220000151j:image 岩城けいさんの『さようなら、オレンジ』を読みました。難民の、移民の、女性たちの、オルタナティヴなファミリーの可能性を描いた一冊。途中からぼろぼろ泣いてしまった。しかし、この物語だって涙で始まり、誰かの涙によって自分の中の心を発見していくのだ。ゼミの関係で読んだが、"神さま"は今の自分に読むべき本を教えてくれたのかもしれないなとすら思った。オーストラリアに旅立った友人にも読んでほしい。

 この作品において女性たちはお互いにケアな存在であり続ける。言葉や文字を教えあい、そして言葉にならないトラウマと共に生きていこうとする。

"娘がいなくなって、私にはなにも残っていないと借じていたのに、先生のおっしゃるとおり書くことが残っていました。論文といういずれ干物になる運命のものであることだし、何世紀か前の乾いた材料を使うので気が楽で、しかも英語だと主語と述語の距離が近いこともあって大胆になれます。この作業をしているときだけ、娘のことを考えておらず、思考と肉体が一致していると感じられるのです。しかし、私は本当にこの言葉で思考できているのでしょうか。"

 

女二人でぴょんぴょん跳ねる。『麦秋』

f:id:is_jenga:20240214173540j:image 久々に小津の『麦秋』を観たが、こんなに面白かったっけ……もともと好きだけどちょっとびっくりするほどずっと面白い。小津映画はマジでスルメというか、この前東京国際映画祭で久しぶりに観た『お早よう』とかも信じられないほど面白くてず〜っと笑顔になっちゃったのを思い出す。

 四人でお紅茶飲みながら女子会するシーンとか、もともとすごい好きだったんだけど、改めて見直しても最高だな……あの椅子を変える場面のリズム感というか、言ってしまえば躍動感がすごいんだよな。軽やか。『麦秋』のケーキの場面もいま見返すと本当にスリリングですごい。様々な目線がケーキ(とそれを買ってきた紀子)に投げ掛けられて、紀子はそれを掻い潜ってケーキを切り、食卓に運び、口に運ばなくてはいけない。しかしあくまでも、紀子はそれを用意する人であろうとする。

 『麦秋』、最後の家族写真の印象が強いけど久しぶりに見返してみると女性が二人で会話をする場面が何度も繰り返され、それがどんどん物語を進めていく(もっと言えば"別の物語"に変化させていく)のが嬉しくなるような作品だった。原節子がどんな視線に対しても原節子であるというのはすごいと思う。

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