純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

「暮らしの思想 佐藤真RETROSPECTIVE」で『エドワード・サイード OUT OF PLACE』『花子』『まひるのほし』を観てきました。

f:id:is_jenga:20240623105048j:imageBunkamura ル・シネマ渋谷宮下で開催されていた「暮らしの思想 佐藤真 RETROSPECTIVE」を観に行きました。4Kレストア版の三本を観ることができました。

f:id:is_jenga:20240623105051j:image

佐藤真特集、1本目は『エドワード・サイード OUT OF PLACE』。パレスチナ人としてのサイード、佐藤真監督がカメラを兵士から隠してレバノンの別荘を撮りにいくところから始まるが、佐藤真監督がすごいのはそこからレバノンパレスチナ難民キャンプやイスラエルにカメラを携えていくところ。

イスラエルでその地区に一人だけ残ったアラブ人のおじいさんがまわりの若者に「やって見せてよ」と言われてタバコの葉を削って火をつけるまでの場面が、美しくもあり、なぜこのようなことになっているのかを考えなくてはならないと、すでにサイードも監督もいない世界で思う。どちらの国においても、食事の場面は驚きと喜びに満ちているけれど、難民キャンプの室内の狭さ、窮屈さは筆舌に尽くしがたい。それすらも奪われているというのに。

f:id:is_jenga:20240623105126j:image

『花子』、ほんとうに観れてよかった。
佐藤真監督、作品を観れば観るほど驚いてしまうというか、本当にすごい人が日本にいたんだなと思う。人を撮るのも勿論上手いのだけれど、なんだか建物や家具や階段が焼き付いて映っている人々の生活の履歴や拡がりをずっと感じていた。

誰を撮るか誰を撮らないか、カメラというのは常に撮る暴力と隣り合わせで、この作品でもお母さんがえっここも撮るの?という場面がどこかユーモラスに映っていたが、佐藤真監督はカメラを回しつつもどこか不在を撮る人だったように思う。それは36歳で夭逝した写真家牛腸茂雄やサイードの痕跡をめぐる作品を残していることもそうなのだが、どこかずっとカメラがここにいない人に想像を巡らせている気がする。家族の中で一人だけカメラに映ることがない姉の桃子さんの言葉が印象的だった。そして、それ以上に、エンドロールにある「題字 今村桃子」というクレジットにハッとさせられてしまう。どのような気持ちで、あの文字を書いていたのだろうか。

f:id:is_jenga:20240623105200j:image

まひるのほし』、最終日に間に合った。
いやー……凄かった。どこかTV的な編集でさまざまな支援施設にいる作り手たちを見せていくのだが、時折訪れるとてつもなく美しいショット、彼らの表情、そして言葉、海、炎……『阿賀に生きる』に映っていたものがここにもまざまざと燃えていて、本当に凄かった。ふと溢れてきた「見事に情けないわ」という言葉が大好きになった。

そして今回の佐藤真RETROSPECTIVE ポスターにも採用されている『まひるのほし』のシゲちゃんのインパクトよ。まさかラストショットでアレをやってくれるとは思わず、泣きそうになっちゃうよね……

佐藤真監督はドキュメンタリー作家であるが、それはたとえばワイズマンやワン・ビンのような国際的に評価された作家というよりは、もっと明るく素直に楽しいものを作ろうとした人な気がする。ナレーションもテロップもどんどん入れていくし、なんなら音楽もかけちゃうし(今作の井上陽水の使い方はあまりにハマっていて泣きそうになってしまう)、もし、もう少しキャリアが続くことがあれば、どこか国民的なドキュメンタリー作家として愛される人になっていたのではないかと思う。そして、言葉にこだわる人でもあった。「人間独特の顔」「シゲちゃんと呼んでください」「見事に情けないわ」等々、監督が出会った宝石のような言葉を大事に大事にカメラに収めようとしていたのではないか。それはこうして僕にも届いた。ドキュメンタリーは言葉を残すことができるということも届いた。この特集で観ることができてよかった。

そして蛇が生まれた。『蛇の道』(2024)

f:id:is_jenga:20240623102757j:image蛇の道』(2024)、原点の『蛇の道』(1998)をソリッドに削ぎ落としつつ柴咲コウの役者の力を最大限に引き出すセルフリメイクの傑作。同じ物語を語り直すこと、舞台をフランスに置き直すことが禍々しさを増幅する。なぜこんな凄惨な物語が語り直されるのか?(凄惨さが原点から増したのか軽減したのかは観る人によって分かれるだろう)それは世界の残酷さが何一つ変わっていないからだろうか。

哀川翔にあったユーモアは削ぎ落とされ、一方でアクション場面の緊張感(柴咲コウの生々しい非力さがむしろ怖い)や「あの目」に漂う殺気はもう柴咲コウのためにこの物語はあったのだという凄まじいものだった。奇しくも自作のセリフリメイクの趣もあった『マッドマックス フュリオサ』でもすべての要はアニャ・テイラー=ジョイの「あの目」にかけられていた。監督が役者を信頼することそれ以上にその映画、その物語がこの演者を必要としていたような鬼気迫る感慨がどちらの作品にもあった。

そして驚いたのは黒沢清の観客を信頼した、サービスを削ぎ落としつつ物語の核を掘り起こすような実直な語り口。誠実だとも思ったし、何より監督が映画をここまで信頼して「これだけでいい」という判断をしている凄味を感じた。柴咲コウのあの目があればそれだけで『蛇の道』になるのだ。哀川翔の中にもこんな柴咲コウが潜んでいたのだろうかとすら妄想してしまう、ラストのあの目。画面の向こうには僕たちがいる。

f:id:is_jenga:20240623102816j:image

あと、原点との一番の違いは舞台をフランスに移したことや「新島さん」の職業を医者に変更したことではなく、やはりあの西島秀俊とのやり取りだと思った。なんならあの診察室が映画の中で一番怖いかもしれない。原点にその出番を与えられていなかった新しい人物、そしてあの西島秀俊のよくわからない独特な口調、アクセントの演技(自分はいまだに彼の演技が上手いのかわからない、そういう意味で『ドライブ・マイ・カー』の使い方も上手かった)。あれだけ意味深な、「世界の理」に触れてしまったかのような黒沢清キャラクターを演じさせておきながら、あの退場の仕方にはやっぱり虚をつかれたし、どこか原点で香川照之が演じていたトリックスター的なキャラクターにも感じた。どんなに凶悪な人間を前にしても怯まなかった柴咲コウ西島秀俊の前では理解不能な他者に対しての戸惑いを見せる……書いていて思ったが、あれは柴咲コウの心象風景なのか? どこか現実から遊離した、心地よい世界だったのだろうか? 考えているうちにわからなくなる。ここ数年の黒沢清映画ではダントツに不気味で素晴らしい作品です。

f:id:is_jenga:20240623102808j:image

人間になる?『ニンゲン合格』

f:id:is_jenga:20240623055446j:image

ずっと主人公の声が西島秀俊っぽくて、そうなのか……?って最後まで確証持てなくてクレジットでうおおお!ってなった。調べてみたら西島秀俊の初主演作品だったのね。

黒沢清の『降霊』を初めて見た時に黒沢清ユニバースの二人が出会ってしまった!と驚いた記憶があるのだけれど、今回も役所広司最高だな……って思ってたところに哀川翔出てきて本当ビックリしたし、哀川翔のキャラクターがいままで見たことない感じで、最後の方に船が沈んだニュースをみんなで観てる時に最後主人公と哀川翔が見つめあうところは本当に切なくて嬉しかった。

牧場を建てるのとか、家族が離散してることと隣り合わせて常にあるってのがとても象徴的だし、どこか『旅のおわり、世界のはじまり』みたいな人間同士の距離感を連想した。西島秀俊も家族を求めているようでいてそうでもなくて、自分がすごくこの映画が好きだったのが旅感があるところというか、同じ場所にいるようなのにずっと旅していく感じが消えなくて、だから最後の死もどこか前向きに描かれている気がしてグッときた。人生そのものが行先のわからない旅というか、それこそ去年の『バーナデット ママは行方不明』に感動したのもそこというか。

最後に、ああだからニンゲン合格ってカタカナだったんだなと思った。みんなが考えてる「人間」になんてならなくていいんだっていうか、どこか動物的な生き方をしているようにも見える役所広司がそれを最後に肯定して、ニンゲンとしてもう合格してるんだっていう熱さを感じた。「人間」代表が大杉漣というか、それもそれで愛くるしくて、大杉漣役所広司の間で揺れてるように見えるのが哀川翔に感じて、だからテレビニュースの時のアイコンタクトが泣ける。

動物っぽいと思ったのはやっぱり役所広司の雰囲気かな……物語の外側に行っちゃうんだけどお父さんとかも冒険して帰ってくる人って感じでどこか神話的で、みんな許されたいみたいな感覚を持ちながら主人公を許そうとすることで自分達も許されていくみたいな感動があった。最新作『蛇の道』の公式ホームページに掲載されたインタビュー「黒沢清監督、 26年を振り返る」では『ニンゲン合格』が転機となった愛憎どちらもある作品だと語っていたのが印象的だった。青山真治の『サッドヴァケイション』みたいな、残酷なようで本当に優しい映画だと思う。大好きです。

映画『蛇の道』オフィシャルサイト 2024年6/14公開

雪のふる旅 アスタリスク


 旅先では本は読めない。旅の途中で本は読める。
 いつだって物語は中断されてから再開されるものだからだ。二十分ちょっとでまた乗り換えなければならない列車の座席に腰を下ろし、数分かけて本を鞄から出すか出さないか決めあぐねる。頭の中では鞄の底から容易く引っ張り出した本を、気ままにパラパラとめくっている。しかし内容は頭に入ってこない。頭の中で開いた本からは文章が抜け落ちてしまっている。列車に揺られながら白いページが沢山収められた本をパラパラとめくる。子供のころ、ドラマやⅭMに映る本は全て偽物で、その中身は新品の歯磨き粉のようにつやつやとした白い紙が詰まっていると思っていた。クリーム色の、誰にも書かれていない紙たち。頭の中では、読むことは難しく、書くことは容易い。まだ書かれていない紙、まだ絞り出されていない歯磨き粉のチューブ。その人は鞄に手をあて、ふと、これは旅の途上なのだ、という思いに囚われた。それが旅であるか旅でないかは自己申告制になっている。たとえ「これは旅だ」と口から溢してみても、旅慣れていないその人はすぐにその旅が放った言葉のように宙を舞って、その人自身が旅のつぶやいた言葉にされてしまう。旅の途上……それは可能性の海に押しつぶされた荒野だろう。そこには荒涼としてなにも見えない、微かに吹雪いているように感じる、ざらざらとした風。その風がその人の身体に押し付けてくる粒子は、雪ではなくて、たとえ結晶の形をしていても指の上で溶けたりしない。それはたとえばアスタリスク。確固とした形を保つ、インクの染み。どこからやってきたのかわからない言葉。言葉のふりをしている記号、空白を埋めようとしてどこからかやってくる粒子。それが風の中に満ちているもの。いや、ほんとはもっと色々なものがその風の中を舞っていて、その人の頬や額や顎や唇にふれて心をざわざわさせる可触性のものが、ただここではアスタリスクと呼ばれているに過ぎないのかも。言葉にならない存在。それがその人の顔に吹きつける。アスタリスクはどこからやってきて、そしてこの列車はどこへゆくのだろう? 目的地につかない限り、その場所を歩くことはできず――通過しない仕方で歩くことはできない――つまりは出会うことのできない場所のままだ。その人は目的地を決め、旅を続けるが、目的地を決めた途端にそれ以外の場所は到達する前から過ぎ去ろうとし始めるということに気づく。すべての場所を目的地にすることはできない。早朝であっても、深夜であっても、車窓から見る景色はその人にとって永遠に手が届かない荒野だ。
 
  *
 
 荒野を旅していても、本を読んでいる間は迷子になっていられる。本はいつでも脱出可能な迷宮だ。本を閉じれば迷宮は姿を消す。本を読む人はいつだって背中に背負った緊急脱出装置(たとえばパラシュートとかそういうもの)を気にしていて、それを失えば帰ってこられなくなってしまう。文学部の人たちは、パラシュートをギリギリまで開かずに堕ちていくスリルを楽しんでいるのかもしれない。本を読んでいる間は、節操もなく、自分の焦りを焦らせてあげられる。それは泳ぎの下手な人に似ている。でも上手くなる必要はない、その水はあなたのためのものなのだから。でもその水で死ぬこともある。かといって泳ぎが上手くなる必要なんてどこにもないとその人は言うけれど、泳ぎ続けていたらいつか上手くなってしまうものかもしれない。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。あなたというのは二人称で、その人からすればあなたはその人が登場する文章を読む人だ。その人はあなたの話を聞きたがっている。けれど、その人があなたの話を聞くことは決してない。その人がここに書かれている以上は。でも、それでも、その人のために、あなたのことを少し書いてみようと思う。あなたが常にいま(おそらく、この文章からはずっと先の未来で)読む時間を現在に持ちながら、読む人であるならば、ここにあなたを書くことはできないのだろうけど、でも「あなた」を書いてみようと思う。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。ちょっと前にそのように書いた。その時の緊張感をわかってくれるだろうか。あなたは、「あなた」と書かれなければこの世界に参入する契機を見つけられないかもしれない。書かれたとしても、参入できないかもしれない。でも、とりあえず書いた。あなたは読む――そして忘れる。きっと忘れるはずだ。列車の乗り換えのタイミングで文章から目を上げ、もしかしたら本を閉じ、鞄にしまってしまうかもしれない。その時に、あなたはきっと読んだことを忘れる。これは同意してもらえるのではないかと思う。読んだものを覚えているよ! という人もいるかもしれないけれど、それはきっと覚えていることを覚えているだけなのだ。あなたは忘れる。だからこそ雪を降らせることができるのだ。その人が振り返ればあなたの雪が積もっている。雪は白くて、きっとこの文章の背景よりも白い。あなたの読んだものにも、きっと雪が積もっていく。そう、あなたの頭の中には、絶えず雪がしんしんしんと降っているだろう。アスタリスクは黒い線になって滲んで、そこに残る。その上にも雪が積もる。その人が旅した荒野も、語られた言葉も、やがてあなたの雪が積もって、白い背景に、白紙の大地へと戻っていく。それは荒野であるだろうか?
 
  *
 
 その人は色々な人の話を聞くのが好きで、様々なところへ出かけていく。だからその人は誰も話してくれないような荒野をたくさん旅してきて、それは荒野であったなぁ、という気持ちで思い出すことはあるが、その人自身がそれを語るわけではない。その人はよく、文学だとか文化だとかの話をする人のところに出かけていって、お金を払ったり払わなかったりして、椅子に座り、ノートに話をメモしていく。そのメモの中にも、たくさんのアスタリスクが隠れていて、言ってしまえばアスタリスクの一大繁殖地になっている。先日、その人は翻訳家たちの講演を聞きに行き、韓国語の詩の朗読を聴いた。聴いたのは二つの詩だった。申瞳集の「いのち」という詩と、姜恩喬の「つつじ」という詩だ。その人は韓国語がわかる訳でもなくて、翻訳家が詩を韓国語で朗読してから同じ詩を日本語でも朗読したので、その人はその詩をまずは意味をとることのできない韓国語として聴いた。そして、その後に聴いた日本語の詩もすぐに忘れてしまった。それはその人が心ここに在らずであったというのではない。いや、そうであったのかもしれないが、その人の心は韓国語の響きに打たれていた。その人は韓国語がわかるわけではないが、韓国で作られた配信ドラマや映画や楽曲にはよく触れていた。そして、そこで聴いた詩の朗読は、そのどれとも違っていた。大学の広い講堂で、暗く静まり返った会場に、その詩は、ひとつひとつの音としてゆっくりと落ちてきた。その人は沢山の耳が暗闇の中で耳をすませている音を聴いた心地がした。まるで雪がしんしんと降り積もるように――しんしんと、これは雪が消える音であったのだ――韓国語の音が詩の響きとして、映画やインタビューのにこやかな響きではなく、ある種の孤独な、誰かの苦しみや、吐息をすぐそばで聴いたような、それでいて誰かが楽器を演奏する手つきを見ているような、そんな音がした。翻訳家は韓国文学は「愛」と「恨」の文学なんです、と語った。「恨」というのはハンと読み、日本語でいう恨みの意味ではない。成就しなかったものへの哀惜。そして「恨」の文学は日本の植民地支配に端を発した韓国の苦痛に満ちた近代現代史を背負っている。その人のノートにはびっしりとメモが書かれていた。その言葉はあなたに読まれることはない。もしかしたらその人にすらも。その人はまた旅をし、ノートをびっしりと言葉で埋め尽くし、アスタリスクは風に吹かれて、その人の身体にぶつかり続ける。その人はもしかしたら、荒野を旅しながら、アスタリスクを全身に浴び、ノートに書き留めているのかもしれない。その人が振り返れば、そこには車窓があり、その向こうの景色では雪が荒野を覆っている。そのことをあなたはきっと忘れてしまう。

世界は語り直される。『マッドマックス:フュリオサ』

f:id:is_jenga:20240603090337j:image

 『フュリオサ』、一夜たち、昨日の自分がウォー・タンクのシークエンスに興奮していたのが馬鹿らしくなるくらい、しみじみと良かったな……前作に比べて長く感じるのはそのように語られているからで、あの"ヒストリーマン"がジョージ・ミラー監督の前作『アラビアンナイト』から同じ役柄で続投しているジョージ・シェフツォフだということを知り、あの『アラビアンナイト』もかなり語り口が複雑であったものの、『フュリオサ』は『怒りのデス・ロード』のように映像で語るのではなく、あくまで語り部の存在が明確化され、それが象徴性と即物性を合わせもったシークエンスで形作られているのだと思った。

 前作『マッドマックス 怒りのデス・ロード』が『駅馬車』的なアクションによってマックスとフュリオサを描いていたのに対し、今作は複雑さや神話の人物の内面を語りきれない視点をそこかしこに持ちつつ(ディメンタスは外見と裏腹に奇妙に捻くれた内面が伺われる)、それでいて冒頭の"戦士"である母親など、英雄的な無言のアクション(行動)の積み重ねで描かれる人物もいる。大人気キャラ"オクトボス"さんは初期シリーズの暴走族の悲哀に満ちていたし、章立てによって分断されつつも語りそのものが変化していくダイナミックさがある。映画自身が失ってしまった語りの言葉を取り戻そうとしているような……

f:id:is_jenga:20240603092009j:image

 『フュリオサ』、もちろんあの中盤のウォー・タンク一台を取り囲むアクションシーンだけでもジョージ・ミラー監督の群像的なアクションを描く上手さには舌を巻く。むしろ前作『怒りのデス・ロード』よりも一台の車にフォーカスすることができ、さらに整理されつつも生起する出来事の組み立てが大胆で、あの"ウォー・タンク"の製造過程を見せていたのもこのアクションの下味だったのか!と感動するし、作り上げられたマシンが、どのように動き、どのように破壊されるのか。そもそもトラックの底から這い上がっていくフュリオサ誕生シークエンスとしても素晴らしい。あそこは本当に前作超えだと思った。

 前日に『怒りのデス・ロード』を見返して、これは運転席にいる人物が外の世界を睨み返す眼を中央に置くときに何かが起こる映画なのだと思ったのだが、今作のアニャ・テイラー=ジョイのその眼たるや。眼光そのものが人間になっているような、あのウォータンクのシークエンスに到達し、おでこをオイルで黒く染めたときに最大化されるあの眼。今作最もカッコいいジャックが引き継いできた目を細める"マックスたち"の目を打ち破るのは彼女の眼しかなかったのだと思う。

f:id:is_jenga:20240603092031j:image

 そして最初は悪役として弱いな〜とか思ってしまったクリス・ヘムズワース演じるディメンタス、観終わってみれば輝いていたのはその「弱さ」そのものであり、最初のテントのシーンで自分がこのシリーズで最も恐ろしく感じてしまったのは(幼いフュリオサがそこに連れてこられることももちろんあるが)、彼がこれまでの悪役の纏ってきた"威厳"から遠く離れて、どこか幼稚な暴力性を垣間見せていたからかもしれない。しかしそうしたイモータン・ジョーに代表される"威厳"こそが、弱者を抑圧するシステムを作り上げる家父長制そのものであったことを思えば、ディメンタスもまたこの荒野の忌み子であったように感じるのだ。ディメンタス、オクトボス、そしてジャック。この三人が神話性を剥奪されたマックスのように見える。彼らの死は無惨だ。しかし無惨に死を描いてくれたことがこの最新作の達成であったように思う。

f:id:is_jenga:20240603092036j:image

神話は3から始まる。『マッドマックス サンダードーム』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

f:id:is_jenga:20240602113414j:image
 ずっと観れてなかったマッドマックス3こと『マッドマックス サンダードーム』をついに観た。いやー……見事。空中決闘場もといサンダードームの中に入ってからはアクションによって見せるのかと思いきや、そこで行われる取引と裏切り、マックスの選択、攻守の反転、誰の側につくべきなのか?それとも、つくべきではないのか?という問いが物語の層を突き破って現れる。そして、マックスも、街の指導者たちも真に恐るべきはサンダードームの殻の表面に張り付いている民衆そのものであった……というものをビジュアルで表現し尽くしているジョージ・ミラーの力量に感服した。

 どこまでもセンスオブワンダーに満ちた作品だった。自分はこのシーンにフェリーニの『アマルコルド』の豪華客船のシーンみたいな感動を覚えたし、メル・ギブソンのマッドマックス三部作の中でも3作目のマックスが一番好きかもしれない。相変わらず口数は少ないが、常に揺れている。『マッドマックス』シリーズはよく一作目から二作目の変化がすごいと言われるけど、こうして見ると二作目のから三作目の変化の方が大きいような気もしたし、この後に『ベイブ』を撮るジョージ・ミラーの豊かな広がりを感じさせる素晴らしい作品だった。本当に優しい映画だと思うし、これを観てから『怒りのデス・ロード』を見ると、また一本マックスというキャラクターの繋がった糸が見えてくると思う。

 自分の悪癖として、三部作の二作目で満足してしまって、三作目を観ない……みたいな作品がままある。『ゴットファーザー PART III』とかもそうだ。やはり先入観なしに観てしまったほうが出会いも発見もより豊かになるんだなと反省した。

f:id:is_jenga:20240602113542j:image

 『フュリオサ』に備えて久しぶりに見返した。どこか動物的な……そういうマックスの演技ができるトム・ハーディの繊細さをとにかく堪能する。

そしてシャーリーズ・セロン演じるフュリオサは間違いなくこの映画の中で輝くトップスターであり、見返してみるとここまで彼女の過去を想像させる言葉が散らされていたのかと思った。「7000日よ」というフュリオサにとってはどこまでも生々しい、数字で答えるしかない時間。

 どこまでも、画面に映っている世界がアメイジングなものであると、こんなにも感じさせてくれる映画監督は、ジョージ・ミラーポール・ヴァーホーヴェンくらいではなかろうか。ヴィジュアルのイマジネーションとその実現力。そこにデヴィッド・リンチを加えてもいいかもしれない。そして彼らの作品には、強い女、いやもっと現代らしい言葉でいうならば、怒れる女性というものがまざまざと刻印されている。彼らは古くからフェミニストであり、正しく怒ろうとする芸術家であったろう。フュリオサが失われた故郷に辿り着く場面、そこで迎える夜、星を見ながら語られる人工衛星、テレビ番組ーー見返してみれば『マッドマックス サンダードーム』のあの子供達の言葉とまっすぐ繋がっているとやっと気づいた。この作品は走っている時間が全てではない。物語は受け継がれる言葉によってしっかり紡がれていたのだ。

 運転する男を何度も演じてきたトム・ハーディ(『ダンケルク』『オン・ザ・ハイウェイ』)は同時に"運転される男"も多く演じてきた(『ブロンソン』『ダークナイト ライジング』『ヴェノム』)。身体を誰かに投げ出すこと、身体を(刑務所の中に実在していたりする)誰かに捧げてしまうこと。メル・ギブソンが演じたマックスというキャラクターを乗りこなすかのように、一挙手一投足(その身振り手振りの細かさよ!台詞が少ないわけではないのに何であんなにマックスの身振りを覚えてしまうのか)がトム・ハーディによる『マッドマックス』の解釈であり、演じることの可能性を探るような自由を感じる姿だった。そしてフュリオサの目、イモータン・ジョーの目。決定的な場面では画面の中央に必ず目が置かれ、その役者の全存在がそこに映るかのようなすさまじさがある。それは常に運転者が外の世界を睨みつける角度だ。「俺を見ろ!」というのは彼らが死ぬ瞬間であると同時に、見られる存在であった彼らの存在が反転してこちらを眼差し返す瞬間として鮮烈だった。私達は彼らに見られていた。

 今回見返してみて、素晴らしいと思ったのはダレ場のように昔は感じていた「沼地」や「故郷」が全くのダレ場ではなく、むしろ物語の沸点は彼らが160日間の旅をやめ、引き返すことを決心する場面だった。あれほど印象的だったイモータン・ジョーの死も、ニュークスの死も過ぎ去っていく一瞬でしかなく、もっとも美しいのは彼らがついに一心となるあの瞬間だった。次点でマックスが名前をフュリオサに伝えるあの場面。名前を伝える、それは文字通りのプレゼントであり、あの瞬間にマックスは自分をフュリオサに捧げたのだと思うと泣けてきてしまう。あの場面のトム・ハーディの演技は本当に泣かせる……見返してよかった。唯一無二の金字塔のような作品だ。

f:id:is_jenga:20240603000811j:image

アンドリュー・スコットに吸い込まれる。Netflix『リプリー』

f:id:is_jenga:20240602112446j:image Netflixの『リプリー』を完走した。現時点で今年ベストドラマです。贅沢な時間だった。

 原作はパトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』。とにかく主演のアンドリュー・スコットを観ているだけでも大満足なのに、イタリアを美しいモノクロ映像で取り上げるその手つきにすでにカラヴァッジョのような「魔」が潜んでいる。視聴者は自身の視線によって知らず知らずのうちに共犯にさせられてしまう。ブレッソンの『スリ』のように、この映画を観ることがどこか犯罪めいている。

f:id:is_jenga:20240602112456j:image

 主人公リプリーが逃亡生活を愉しむと同時に、カラヴァッジョに魅せられ、その作品がローマの要所要所で登場し、殺人罪で逃亡するカラヴァッジョの晩年を追体験するかのように重ね合わせて描かれているのが印象的だった。物語が何層にもレイヤーを重ねていて容易には読み取らせない、詐欺師のその表情のようで、しかしモノクロの画面でイタリアを映すショットはどれも美しく、それも相まって緊張感と優美さが混ざり合う素晴らしい効果をあげている。途中主人公が教会にカラヴァッジョを見にいき、教会の隅の暗い一角で、100円入れるとカラヴァッジョの絵がライトアップされるよというようないかにも観光地らしい場所でカラヴァッジョを恍惚に見上げる主人公、そこに後ろから近づいてくる神父が話しかけるでもなく声をかけ、「光だ」「常に光がある」と呟くとともに時間が切れて照明が落ちる、という一連のシークエンスを、殺した男の名前を偽ってその恋人に手紙を書く場面に差し込むという、何重にもクールな演出に痺れる。

f:id:is_jenga:20240602112508j:image

 カラヴァッジョの絵画に「殺人者/犯罪者の芸術」というレイヤーが重ねられる様は去年観たブレッソンの『スリ』を連想したし、彼が殺した友人の名を偽って書く手紙でしか彼の内面を語ることができないというのも、彼がこうした犯罪行為でしか彼の孤独を語ることができないというトラウマに沈められた男のようで悲しい。

 イタリア版『ベター・コール・ソウル』と言ってもいいのかもしれない。あまりにも好き。