純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

8時間26分の一瞬『死霊魂』

 8時間26分、最初は尻込みしたが、観ていくうちにだんだんと映画の語りの速度に浸透/信用してゆき、「何があったのか」に少しでも近づきたいのなら、ドキュメンタリーというものは本来こうした語りの時間を持っているべきなんじゃないのか?とすら思えてくる。それほどまでにワン・ビンの撮る語りの密度はすさまじい。

 構成としては収容所から生還した人やその家族にインタビューしていく映像を重ねていくだけと言えるのだが(状況としてはアウシュビッツ収容所における『夜と霧』を連想した)、それにしても驚く点は多く、一人当たりの語りのカットの長さと語りの熱量はどうしても異常であり、監督はこんな想像を絶する飢餓状態、生命の危機に瀕していた人々からなぜこんな語りが引き出せるんだ?この切り取られた10分の語りの密度はどうなっているんだ?と絶句するしかない。そして第1部から第2部へと、教育者の苦難が色濃くなっていくにつれ、語りも変容し、より彼らの語りの物語性(当たり前だが、フィクションだとかそういう話ではない)は強まっていく。特に息子とともに列車に飛び乗る話はそれ単体でもすさまじい劇的さを持ち、思わず涙がこぼれそうになった。たしかに異常な密度、長さの作品ではあるが、ワン・ビン監督の作品の中ではもっとも幅広い人々に観られるべきものだとも思う。

 しかし、ここまでのものを撮り上げながら、最後の収容所跡地(見渡す限り大量の白骨が未だに野ざらしになっている)を彷徨うワン・ビン監督自身のカメラ/眼差しのなんと絶望的なことか……それはまたこれを観た僕らに突きつける眼差しでもある。

小説にすることと生きること『江分利満氏の優雅な生活』

 Netflixで『斬る』に続けて観たが、まさかこんな一見ゆるゆるなコメディが自分の最も愛する岡本喜八映画になるとは。ストップモーションとかミュージカルのような演出とか、お洒落で斬新なところも目を引くけれど、何よりこのショートショートのようなストーリーを引っ張るのは、何もなかったかのような男が「小説を書くこと」(もしくは「書かされること」)で自分の人生を発見していくという普遍的でありながら奇跡のような営みだ。自分の子供が休日に古本屋を往復するところから書きはじめた物語は、やがて時系列を無視してどんどん過去を語り繋いでいく。そしてそれは自身が目を背けていたのかもしれない「死」への欲求、それが綱渡りのところで辛くも回避されていく行程を優雅な言葉で語ることに成功する。その反面僕らだけが観ることができる小林桂樹演じる江分利満氏の姿は、情けなく、涙ぐましく、生きようと必死でもがいている。その落差が発露するのが素晴らしい「お茶漬け」のシーンだ。原稿用紙に書かれた「EVERY MAN」が彼を救ったのか?(そうでなくてもあのシーンは何故か涙腺にくる)

 「戦後」とか、「お茶漬け」とか、「母の葬式」とか、「奔放な父」とか、ところどころに小津映画、それも『東京物語』を彷彿とさせるシーンがあってそれだけでも泣ける。おそらく岡本喜八は一ミリもそんなことは考えていないだろうが、やっぱり父親役の東野英治郎が東京の風を呼び込んでしまう。この映画からフラッと出かけて東京で笠智衆と飲んだくれてそうな気すらする。しかし、それでいて最後にはちゃぶ台をひっくり返すようなあの演出。あそこまでは感動していたし信じてたのに。とんでもないよ映画だよ、だからこそ一生愛せる一本になってしまった。そういう意味ではどうしてもずっと愛してしまう小津の『生まれてはみたけれど』の不意打ちの感動に匹敵する、心の本棚に並べて大事にしておきたい映画。

恋をして気分が悪い『マグノリア』

「恋をして気分が悪い」
「その二つを混同するのか?」
「そのとおり、やっと正しいことを言った!おれはその二つを混同する」

 1999年の作品ではあるが、「有害な男らしさ」をこれでもかと描いている。社会的に追い込まれていくゲイの男性、警察官としてしか生きてこれなかった男、自己啓発セミナーを開くトム・クルーズ、その父親で臨終時に捨てた母子を思い出す老人。これは今もなお、というか2021年だからこそ、より危うさが鮮明になっている部分だと思う。特に、「女を誘惑してねじ伏せろ!」と男たちを煽り続けるトム・クルーズがすごい。一度も見たことないトム・クルーズだったかもしれない。TVCMから始まるある種のペテン師(もしくは教祖)としての人生に、彼自身染まりきろうともがいている、繊細さをひた隠しにしようとする演技がめちゃくちゃ良い。あと相変わらず若い頃のフィリップ・シーモア・ホフマンは聖的な雰囲気を纏っている。とぼけた表情が本当に無垢な顔に見えるんだよな。
 群像劇でありながら起承転結のような構造はわかりやすく示されていて、それぞれの人生がほんのささいな、しかし確実に育まれていた「転」によって崩壊していく様はどれも非常に辛い。この世界はみんな限界ギリギリで生きているのかもしれない、世界そのものがもう崩壊寸前なのかもしれないという空気感は20世紀末のそれが染み付いているようだった。

……つい答えを言ってしまいました……それではみなさん、ショパンをどうぞ……

 「人生はいまいましく長い」年老いた父親たちがそんな風に嘆いても、傷だらけにされた子供達の心が癒えることはない。辛い話が続いていくが、安易な救済を描かない作り手の実直さを感じた。手遅れなものは手遅れであり、一生償えない罪もある。そうしたことを、突き放すでもなく皮肉でもなく描いていく。そして、一見全く不合理で、おそらく全ての人に対して全く関係のない出来事が空から降ってくる。偶然の全く関係のないことをどこまで自分の事として受け入れてしまうか、それが「奇跡」というものなのだと思うが、あの場面の衝撃はまさしく「奇跡」のような体験だった。これだけはネタバレを知らずに見てほしいと思う。正直後半はずっと感動していたのだが、この瞬間に昇華したような感覚を味わった。疲れた仕事終わりの週末に三時間かけて観たあの深夜の出来事をもうずっと忘れないだろう。

黙示録のオリンピック『ジャッリカットゥ 牛の怒り』

 たまたまオリンピック開会式の日のレイトショーで観たので、上映後友人二人と映画館を後にしながら「……俺たちのオリンピックが始まったな。」と不思議な感慨に浸った。冒頭と末尾に黙示録が引用されるように、インドの端っこにあるキリスト教徒の割合がとても多い地域(ケーララ州)で行われる「ジャッリカットゥ」=牛追い祭りは果てしなく祝祭のムードを帯び、映画のラストシーンに至ってその狂騒のボルテージは最高潮に達する。チラシの裏で『ミッドサマー』のアリ・アスター監督が絶賛してたのも当然だった。夜のジャングルを疾走する男たちは聖火ランナーであるかもしれない。

 あまりに度肝を抜かれてしまって、ドキュメンタリーのようでありながらスピルバーグの『ジョーズ』『ジュラシック・パーク』のようなエンターテインメントとしての構成も見事で(監督もパンフで言及してた)、久々に訳のわからない巨大な黒々とした映画体験を味わった。去年でいう『バクラウ』『マンディ』あたりが近いかも。日本のポスターがインパクトを損なわずに最低限の説明をするいい仕事をしていると思うが、暴走する牛と共に荒れ狂う「群衆」を撮るぞという強靭な意思をこの映画から感じた。映画のドラマに慣れてしまっているとこういった人間の渦を撮ろうとする映画にふいに出会うと目が覚めるような思いがする。南米のマジックリアリズム小説とかも連想した。パンフのインタビューで監督が「群衆を美しく撮った映画」として黒澤明の『乱』を挙げていて、正直自分としてはそれに迫るほどの「美しさ」を今作も宿していると思った。

 細かいところだと、途中主人公と因縁を持っている村を追われた男が「狩りの名手」として凱旋してくる下りとかは非常に神話・物語的なのに、登場の仕方が『HiGH&LOW』の達磨一家みたいに車のボンネットに胡坐をかいたまま山道を上ってきて爆笑とか、騒ぎを聞きつけて隣町の若者たちがやってきて爆竹を投げまくってケンカとか、好きなところはたくさんあるんですが、昔のインド旅行で感じた道端のインド人全員面白い、というかちょっと神がかって見える感覚はボリウッドの豪勢なインド映画にはないもので懐かしかった。最後にトロント映画祭の監督の素晴らしい発言を引用して終わりたい。

 (この映画は)牛と人間、二つのフォルムを纏った暴力だと考えることができるのではないでしょうか。人間がいて獣がいて、映画が進むにつれ、両者の間の距離は徐々に消えていく。その最高点においては、両者の境は無くなり、そこにいるのは獣そのものです。そのような観点に脚本は変わっていきました。

もう十分救ってもらった。『サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~』

 想像以上に沈鬱な、どこか祈りのような映画だったが、それ故に、ある意味ものすごく救いがないようにも取れるラストの「救済」感というか、この映画がフィクションであるがゆえに、それだからこそ、この中の物語でオチをつけて終わらせたくはないというようなラストシーンで、どこか救われたような気持になった。やっぱり、最後の主人公の決断や、愛し続け求め続けた人にかける言葉が「もう十分救ってもらった」であったことなど、人生の受難を受け入れるような物語であるといえるのに、それが「メタル」の「音」を求めるという極めて純粋な方向性で描かれていくので(その「音」には無限に様々な意味が込められているのだが)、宗教っぽくもないし、青春の痛みともまた違い、どこまでも個人的な体験として観客の胸に刻まれる。中盤身を寄せることになるある集団全体の持つ、痛みを共有していく空気もすごいリアルな気がした。しかし、一番つらいのは手術後の「音」がそれまでの人生で聞いてきたものとは全く違ってしまう場面。彼女の「言葉」はわかっても、「声」は永遠に掴めなくなってしまったという絶望。書いていてやっぱり辛くなってきた。あのピアノのシーンも、二人が抱える悲しさが決定的に違っている、それを二人がわかってしまうというのが悲しい。素晴らしい映画だったと思う。今年の春ごろに観た『ロードオブカオス』も素晴らしかったが、メタルを題材にするとなんでこんなに人間の純粋性が際立つのだろうか。映画館で見る価値は大きい作品だと思う。