純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

時間蠅たちは、矢がお好き


 多和田葉子の小説が好きだ。
 去年は四冊くらい読んだのだが、急にもったいない精神が発動して今年は読んでいなかった。しかし去年多和田葉子はいいぞと散々勧めていた友人から勧めていたのとは別の(多和田葉子の)本を読み始めたよ! と連絡がきてなんだかモヤモヤしてしまって――それはその友人が悪いというよりも自分がその本を読んでいなかったことにむらむらしてしまう自尊心の重さによるのだが――自分もそれならばとまた別の(多和田葉子の)本を読むことにした。それは『容疑者の夜行列車』という本で、自分は読んでいない本に囲まれて生活している。
 この本は「あなた」という二人称小説で、章ごとに様々な目的地に向かう夜行列車の時間が語られる。パリ、北京、イルクーツク……それぞれの目的地は繋がっていないどころかそこに到達するかもわからないまま終わってしまったりする。海外旅行への憧れと共に読み進めていたら、終わりが迫ってきたあたりで、ボンベイへと向かう列車――ムンバイと呼んでもいい――が登場した。これはつまりインドを走る夜行列車である。そして、自分も一度だけ夜行列車に乗り込む機会があったのはインド旅行だったのだと思い出した。
 もっとも、自分が乗った夜行列車はインド東の港コルカタを出発してガンジス河の流れる聖地ヴァーラーナシーに向かうものだった。というより、列車はまだまだ西へと進むが、自分と友人はそこで降りたのだ。だいたい二十六時間の列車の旅、小説の「あなた」と違って飽きることはなかった。小説の、夜が二回やってくるという一文は覚えがある。二段ベッドのような寝台の「上」のほうを友人に譲ってもらったのだが、そこにコンセントがあったばかりに、隙を見て色々なインド人が上ってくるようになった。「ここは私の席です」というと一応は降りてくれるのだが、しばらくするとまた別のインド人が上ってくる。小説の中では「あなた」のベットに腰かけてうたたねしていた少年がお漏らしをしてしまうので、自分の車輛は紳士ばかりだったのかもしれない。小説の言葉に色はないが、車内で配られたお弁当を開けたときの黄色を鮮明に思い出す。乗り合わせた人々の顔をあまり思い出せなくて申し訳ない。自分の眼はあのお弁当の蓋を開けた瞬間からインドの黄色に染め上げられてしまった。もちろん中身はカレーである。友人が横浜市立図書館で借りた岩波文庫の『タゴール詩集』を持ってきていて、本が黄色くなってしまうのではないかと心配した。
 小説では列車のチケット売り場が大行列で心配だという話だったが、自分の中でも小説を読んでいるうちにむくむくと不安が膨らんだ。この春に出した論文の中で多和田葉子を引用したのだが、それに通じるような記述が出て来ない。もしかして間違った引用をしてしまったのか? とインドの黄色も蒼ざめて、耐え切れずに論文の抜き刷りを確認したところ、引用していたのは『ゴットハルト鉄道』だった。思わず関係ない不安の路線に乗り込んで、どこまでも行ってしまうところだった。
 最後に多和田葉子から教わった呪文を唱えよう。タイム・フライズ・ライク・アン・アロウ。時間蠅たちは、矢がお好き。

 

5/19の文学フリマ東京に出店します!!
その時の新刊に載るであろうエッセイです。

文学フリマ東京38 – 2024/5/19(日) | 文学フリマ