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潮風は長編漫画の夢を見るか? ――阿部共実と施川ユウキと黒田硫黄の〈海〉、そして無風状態――

後輩が阿部共実さんの漫画『潮が舞い子が舞い』の同人誌を作って冬コミに出すというので、評論だかエッセイだかわからない13000字の駄文を寄稿しました。話したいことは全部書いた。まだ完成してませんが、「コミックマーケット103 日曜日(12/30) 東地区 “ノ” ブロック 33a 」だそうです。その日、僕は香港にいるはず。

 

 

潮風は長編漫画の夢を見るか?
――阿部共実施川ユウキ黒田硫黄の〈海〉、そして無風状態――


                石川ライカ

 

 友人が阿部共実の漫画『潮が舞い子が舞い』(以下『潮舞い』)の同人誌をつくるというので、何かを書こうとは思っていた。しかし、自分は二次創作をするには度胸がなさすぎるし(彼ら/彼女らのことは好きだが、友達になれるかはわからない)、かといってこの漫画のすばらしさを伝えられるような気の利いた批評文を書けるとも思えない(いつも自己言及から書き出すのは悪い癖だ)。まあだから、いくつかの漫画を読んで普段ぼんやり考えていることを、ちょっと言葉にできたらいいなと思って筆を執った。文章の題に掲げたように、パロディの風に身を任せて、自分がこれらの漫画を読んでいて感じる「潮風」の話が出来たらいいと思う。題材として考えているのは阿部共実施川ユウキ黒田硫黄の三人の漫画家だ。他にも脱線していくかもしれない。ある作品があり、別の作品と並べて色々言ってみる。夜も更けた囲炉裏の雑談のようなものです。

一、『潮舞い』は長編漫画なのか

 まず、「長編漫画」という概念自体が曖昧なものである点は留意したい。「長編漫画」という言葉の明確な定義はない。たとえば、四七一二名を対象にして二〇二一年一二月に行われた「〝長編マンガ〟に関する意識調査」(総合電子書籍ストア「ブックライブ」調べ)を見てみると、「本調査内では、単行本で5巻以上連載が続いているマンガ作品を「長編マンガ」として定義しています。」という記述がある。また、同様の記事を書いている個人ブログなどでは、長編の定義を「連載5年以上か、単行本10巻以上」としているものも多かった。要するに、「連載が長く続いている」とみなされる漫画が長編漫画なのだ。しかし、せっかくここでこうして文章を書こうとしているのだし、定量的な評価をするのではつまらない。長編漫画についてもっと定性的な、文芸的な批評を試みたい。
 稀代の短編作家である芥川龍之介にとって、最初の長編小説の試みは壮大な失敗であった。その失敗作と言われる(というか本人が散々卑下している)「偸盗」を論じた、山本亮介の「長い小説の作り方」では、叙事詩ジャンルの先に長篇小説(=Roman)を位置づけたヘーゲルルカーチに触れ、「超越的なものを失った世界で葛藤する個人が、生の全体性の回復を目指すというモチーフは、さまざまな長編作品へ当てはめることができるはずだ。」と述べる。これは作品の構造に着目した定義の一つといえる。また、こちらが論文の趣旨となるが、小説に言葉が多くなること、つまりは量的に〈長さ〉が伸びていくことに関して、「小説の言葉の連なりじたいが帯びるエネルギー」に注目し、「小説の〈長さ〉とは、観念的な線ではなく、質量を持つ言葉が形作るものである。そして長編小説は、その〈長さ〉の生成を一つの目的とする文学ジャンルである。」とまとめている。
 突然文学だ何だと言って、なんだかこの文章自体が長さを延長しようとしているように思われてしまうかもしれないが、この論文で指摘されている小説の〈長さ〉を伸ばす方法はシンプルなものである。場面を変えて、情景の説明をする。登場人物を増やして、それぞれの背景や内面を語る。時間帯や年月を進行させて、変化を語る……もうおわかりかもしれないが、これらの要素は『潮舞い』にはあまり当てはまらない。もちろん小説の語りと漫画のナラティヴを並列に論じる訳にはいかないが、『潮舞い』においては基本的に一つのエピソードはワンシチュエーションで進むことがほとんどである。たしかに登場人物は膨大だが、一人一人の背景や内面が丁寧に掘り下げられるわけではない。時間は……これは重要な問題だ。はたして『潮舞い』世界の時間はどのように進行しているのか。それとも止まっているのか? この点に関しては後述したい。しかし、阿部共実作品に触れたものならだれでも思うように、阿部共実の漫画は質量を持った言葉に溢れている。言葉が氾濫している。また同時に極めて特徴的な点として、ショートショートのような一話完結の形式で進んでいく。これは初期作品である『空が灰色だから』では顕著である。次々と新しいキャラクターが現れては消えていく。初期作品から最新作まで、阿部共実作品の特質でありまた大きな魅力として、物語の一回性、断絶性が指摘できるだろう。
 山本亮介論で述べられていた「超越的なものを失った世界で葛藤する個人が、生の全体性の回復を目指すというモチーフ」という観点は、特に単行本一冊で完結する長さの物語を一人の視点から語り終えた『ちーちゃんはちょっと足りない』などに強くあてはまるだろう。この一つの物語が語りおおせられたという満足感によって、当時の筆者は「ついに阿部共実が長編漫画を描いた」という感慨を抱いた覚えがある。そして、やっと問題は最初に戻ってくる。阿部共実作品としては間違いなく最長の連載となった、今年の八月に第十巻をもって完結した『潮が舞い子が舞い』は、はたして長編漫画なのか?
 こう言い換えてもいい。短編を積み重ねていくとそれは長編になるのだろうか? 先に西洋の叙事詩に触れたので、たとえば『平家物語』や『源氏物語』が長編であるとすれば、『今昔物語』は長編なのか? 話を文学に引き戻すつもりはない。ここで比較してみたいのは、阿部共実より十年ほど早くデビューした漫画家、施川ユウキである。

 デビューの時期こそ違えど、阿部共実施川ユウキの両者は面識があり、二〇一三年には秋田書店WEBマンガサイト『Championタップ!』のオープンを記念して、コミックナタリーによる対談企画が行われている。そこでは「ちょっと毒気のあるおふたり」という紹介で、主にギャグマンガ家としての創作に関する対話が交わされている。阿部共実施川ユウキの『サナギさん』に衝撃を受けて『空が灰色だから』で女の子に屁理屈をペラペラ言わせたなど、貴重な影響関係がうかがえるが、ここで注目すべきは、施川ユウキが影響元として『伝染るんです。』『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』『ぼのぼの』などの作品を挙げているように、この両者に共通して(対談企画によるジャンル化の要請はあるにせよ)「ギャグマンガ家」というアイデンティティが見受けられる点である。
 ここまで読んでくれていた人には、文学だとか叙事詩だとか大層なことを書いているけど、これはギャグマンガじゃないかと呆れていた人もいるだろう。そう、ここにはギャグマンガは長編たりうるのかという深淵なる問いすら横たわっている。それぞれの作品について読者の価値判断が適用されるとは思うが、阿部共実施川ユウキの二人に限っていえば、その作品の特徴は重なりつつもかなり異なっている。このインタビューの時点で十作品以上の連載を終えている施川ユウキは、この前後に描かれた『オンノジ』や『ヨルとネル』を見ただけでも、これらの作品がSFかつ日常的なギャグエピソードの蓄積によって駆動しつつも、それが例えば前者なら奇妙な世界からの脱出、後者なら待ちうける死の運命など、明確な結末に向かうドラマツルギーを駆使している。この点ですでに施川ユウキは長編化の要請に応えるストーリーテラーとしての手腕に長けた作家といえるが、阿部共実作品と比較すべきはむしろ連載中の『鬱ごはん』や『バーナード嬢曰く。』(以下『ド嬢』)の方である。これは「日常系」と言えばいいのだろうか、めぐり続ける四季の中で登場人物たちのやり取りを紡いでいくものである。前者は一人暮らしのフリーター「鬱野」の視点でアンチグルメ漫画のようなネガティヴな(と同時に楽天的な)生活と食が語られ、後者は高校の図書館に集う男女数人の(読書ジョークにまみれた)交流が描かれる。ショートショート形式でもあり、物語の「終わり」が設定または予感されずに進んでいくことができる。『空が灰色だから』や『潮が舞い子が舞い』もまたこのような作品と共に見ることができるだろう。ちなみに私見では、施川ユウキの近年の作品『銀河の死なない子供たちへ』はそのナンバリングが(上)(下)とされていたように、最初から想定された尺の中で描かれた「完結に向かう物語」といえ、阿部共実の『ちーちゃんはちょっと足りない』をも連想させるような、作家たちの持つ「独立した、高度に構築された作品を創ること」への欲望を感じたものだった。
 しかし、施川ユウキは膨大な作品数を経て、より狡猾な戦略を持ち合わせているようにも思えるのだ。それは、長編化の技術というよりも、むしろアンチ・エンディング的な資質である。施川ユウキは本来読者をドラマチックな終りへと導くことに長けた作家であるはずなのだ。であるからこそ、彼はエンドを示すことを避け、非線形な物語として逆説的な長編漫画化を成し遂げている。例を挙げよう。『鬱ごはん』の第一巻であんなにも印象深く登場していた黒猫(第一話では「妖精」と呼ばれていた)はなぜ第二巻を最後にして姿を消してしまったのか? 主人公の内面と対話する自己分析的で嫌味なあの黒猫が登場し続けていたならば、「鬱野」の物語にはそのような自分との決別や和解など、ある種の「エンド」が想定され得たのではないか。
 また、これは極めて象徴的な例であるが、『ド嬢』には再編集された電子書籍限定の無料公開版、【友情編】が存在する。これは主人公の町田さわ子と神林しおりの二人の交流エピソードのみを収録したものであり、そのカップリング人気の高さから巷では【百合編】などと呼ばれていたりもする。この【友情編】では二人の友情の芽生えからその関係性の変化が丹念に描かれ、読者はその行く末を見守ることとなる。もちろん連載途中の作品の「傑作選」であるのでその中でストーリーが完結することはないのだが、それでもかなりクライマックスと呼べるエピソードが二回ある。【友情編】における13冊目「渚にて」と16冊目「デジャヴ」である。それはどちらも〈海〉にまつわるもので、普段は図書室の中で人物同士の掛け合いを映すカメラがここでは神林しおりに強く内面化し、彼女のモノローグが浮かび上がっていく。そして言ってしまえば、神林が「潮風」に呼び起される読書の記憶と共に町田さわ子を想う、というある種の「ハッピーエンド」が読み取れるのである。「ハッピーエンド」という言葉は熱狂的なSF小説ファンの神林には似つかわしくないかもしれないが、このエピソードが終末ものの名作、ネヴィル・シュート『渚にて』を引用しているところからもその終わり(と同時に永遠)への志向は明らかであると思う。
 そして、もう結論を言ってしまっているような気もするが、『ド嬢』の〈海〉が読書に夢中になって終点まで乗り過ごした果てにたどり着く場所であるならば(それは文字通り神林と町田の距離感でもあり、また関係性の終点でもあるだろう)、『潮舞い』の〈海〉とはどのようなものだろうか。『潮舞い』の第一話冒頭のモノローグは「潮が舞い込む/海のそばの/田舎町」であり、この言葉は第一話の末尾にて繰り返され、「しょっぱいすわー!」というモノローグの応酬が重ねられている。つまり、『潮舞い』世界における〈海〉とはなによりも「潮風」として子供たち(と大人たちすべて)を包み込むものである。「しょっぱい」という味覚によって内側から浸食する「風」である。第一巻の表紙に描かれた風を孕む教室のカーテンが示すように、それはむしろ「向こうからやってくる」〈海〉といってもいいのかもしれない。もちろん高校生の彼ら/彼女らは容易く海に寄り道し(21話)、時には海にダイブする(37話)。しかしそうした〈海〉への接近は物語にクライマックスをもたらすことはない。むしろ高台にある団地から遠景として〈海〉が描写される場面により強烈な関係性の動揺がもたらされる。
 ここから最終巻の内容に触れるが、最終話まであと四話に迫った107話では水木と火川が高台の団地から海辺の銭湯まで下降移動をしながら将来についての会話をする。また、最終話手前の109話では水木と犀賀が自転車の二人乗りをしながらよりスピードを増した状態で坂道を下降していく。学校においても漫画においても中心人物といえる水木と、火川や犀賀との関係性がやがて変化していく(もしくはもう変わってしまっている)ことが高度の変化によって示唆されている。というより、水木は二人のどちらとも下降運動を繰り返すが、その適応力の高さゆえか、自身のスピードを決めかねているようにも思える。高度の変化に関していえば、学校の持つ構造そのものも学年という高度を持っている。たとえば八巻の末尾に収録されている〝あの〟88話では水木と百々瀬が二人で団地のある高台まで上っていき、やがてあの会話へとたどり着くことになるが、そこに至るまでの八巻の道のりを振り返れば、78話から83話までは水平方向に同一化されたグループの話を描き(ワンシチュエーション劇が多い)、とくに81話、82話では二人に視点が固定されスローな時間が描かれるという点において後半の流動化、階層化、固定された関係の破壊の下準備としては強烈な仕掛けになっている。また84話、85話、87話の三話分を使って執拗に一年生男子の視点を入れ込んでくることで、水木たちのいる学年の階層性が立体的なものとして浮かび上がり、何らかの閾値に達してしまうかのような緊張感を味わったことを覚えている。
 そして最終話に視点を戻せば、百々瀬とバーグマンの二人は教室に揺れるカーテン(潮風)によって〈海〉へと誘われ、授業をサボって(二時間目から!)砂浜へゆく。そしてこの二人はあくまでこの二人らしく、徹底して動かず、並んで座ったまま言葉を重ねていく。

「学校を抜け出しちゃって これ私たち終わりましたよね」
「真鈴 終わりは始まりともいうじゃねえか」

 北野武の映画『キッズ・リターン』のラストの台詞すら思い出す鮮烈な言葉だが、この二人はラストショットに至って海へと足をうずめる。〈海〉に入ったというよりは触れたというべきか、このやわらかな接触阿部共実お得意の水玉表現と共に半ば静止した時間のようにも見える。ここに「永遠」を見てしまいそうになるのは読者のエゴかも知れない。僕は容易く、節操なく、思い出してしまう。

  また見付かった。
  何がだ? 永遠。
  去ってしまった海のことさあ
  太陽もろとも去ってしまった。

 これは中原中也が訳したランボーの「永遠」の一節だが、しかし太陽はまだ真上に照っている。せいぜい四時間目が終わるくらいの時間だろう。彼女たちには無限のような午後がある。そして、僕が言いたいのは、この場面ではない。その前話のラストに置かれた水木と犀賀のやり取りを思い出せば、どこか現実を捉え切れずに「潮風」への抵抗感をにじませたままの水木と、「潮風」そのものと戯れようとする百々瀬たちの遠く離れた在りようを感じてしまうのである。

「いいね どこまでも行きたくなるよね でも風越が待ってるから」
「わかってるよ」

 潮風と接近することで、彼女たちの物語は無風状態を呼び寄せる。しかし一方で、水木は『シン・仮面ライダー』の冒頭すら彷彿とさせる「風」の最大化の状態にある。そして、何を隠そう、待っているのは「風越」なのだ。水木は風を越えようとしている。

二、潮風が止むとき

 実はまだ僕がこの文章で書きたいと思っていることの半分も書けていないのだ。みなさんはお気づきのことだろうが、副題に掲げた「黒田硫黄」のくの字も出ていない。ちょっと焦ってきたので、もう少し足早に話を進めることにしたい。
 前節では阿部共実施川ユウキを比較し、「長編漫画」への志向と〈海〉の表象について書いてみたが、ここで「長編に失敗した作家」として黒田硫黄を置き、もう一方に「長編を手玉に取った作家」施川ユウキを置いてみる。施川ユウキという作家については既に述べたので多くは書かないが、たとえば『バーナード嬢曰く。』の無料公開版の、ただ再編集することによって最終話を用意しうるかのような手つきのことである。施川ユウキは長編漫画の持つひとつの〈海〉=クライマックスへの誘惑を回避しつづける作家のように思える。それでは、ここで突然登場する黒田硫黄はどうか。個人的な見解だが、黒田硫黄はいわば芥川龍之介のような、「長編を書けない作家」なのではないかと思うのだ。もちろんこれには彼が病気療養をしていたという理由もあるだろう。断っておきたいのは、「長編を書けない」とここで書くことは決して作家を蔑んだり否定するものではなく、芥川の作品の価値が今もなお更新されていくように、作家の資質としてそう捉えてみたいということなのだ。
 (ファンとしては驚くべき事態だったのだが)つい先月に配信されたアナウンサー吉田尚記によるポッドキャスト番組『マンガのラジオ』に黒田硫黄が登場し、全四回にわたって自身の経歴や創作方法について語っていた。その中で、初連載であった『大日本天狗党絵詞』が完結した後、なかなか単行本が売れず、むしろ『大王』という短編集の方が売れたことによって漫画家を続けることができたと話していた。彼の短編作品は珠玉の出来といえる一方で、長編とよべる作品は少ない。長編化を目指したであろう作品はいくつかあるが、それらはどれも果敢な墜落劇のような様相を見せ、最後まで物語を運ぶことができたのは最初の長編『大日本天狗党絵詞』が最後だったようにも思うのである。そして、三人目の作家として黒田硫黄を選んだ最大の理由は、黒田硫黄もまた阿部共実のように短編を積み上げていくことで長編を作り上げようとする節があるからだ。とくに『茄子』と『セクシーボイスアンドロボ』の二作はそれが顕著である。前者にいたっては茄子が登場すること以外には何の繋がりもない(たまにある)独立した話が積み上げられ、後者は女子中学生探偵ものという体裁で一話一話別々の事件が扱われるが、こちらにいたっては未完のまま終了してしまう(その後大幅に脚本を改変してテレビドラマ化される)。その後に不定期に連載したのが『あたらしい朝』であり、こちらは何と一九三〇年代のドイツを舞台にした戦記モノである。といっていいのか、ここで描かれる〈海〉が実に曲者なのである。ただのチンピラだったはずのマックスは、ひょんなことからナチスの裏金をネコババし、ドイツ海軍の仮装巡洋艦「トール」の乗組員となってしまう。この漫画の前半部分はずっと海上で物語が展開されるのだが、そこで描かれるのは戦争状況とは裏腹な停滞に次ぐ停滞である。
 黒田硫黄の〈海〉は物語に対して何らかの引力を持つことはなく、むしろ停滞、安定としてそこに現れる。風は吹いてこず、その無風状態は空虚な空間として好んで黒田硫黄が用いるイメージでもあろう。同様の情景として、黒田硫黄は砂漠を好む。もっと言えば三蔵法師を好む。広大な海や砂漠の上で太陽に照り付けられながら彷徨うというモチーフを何度も書いており、けだるい海の上はあてのない妄想が生まれるキャンパスでもあるのだろう。今年の七月に出た『ころぶところがる』では三蔵法師は自転車にまたがって天竺を目指し、砂漠は火星まで拡張されていた。そんな茫漠とした〈海〉によって、むしろ彼の短編の想像力の奔放さが生まれているのかもしれない。ただしここでひとつ、躍動感に満ちた〈海〉の例を挙げるならば、それは『セクシーボイスアンドロボ』第二話「女は海」に描かれた水族館である。ここでは〈海〉は愚かな男たちが飛び込む水槽であり、女はそれを鑑賞するのみである。愚かなまま水に飛び込む、この力学は黒田硫黄作品に時折登場する徒手空拳のまま飛翔するイメージ(つまりは天狗)を反転させたものともいえるかもしれない。
 ここに至って、無理やりに一つの答えを出してみる。長編漫画を描くということ、いや、漫画が長編となること、その鍵となるのは、「潮風」を弱く、しかし長く確実に吹かせることではないだろうか? これは比喩でありながらそのまま「風」という漫画表現でもある。映画の演出として、クライマックスに近づくにつれ、風が強くなるというものがある。お手本のような例としては黒沢清の『散歩する侵略者』がある。しかし、風が強くなりすぎると物語は終わってしまうのである。全十巻の『潮舞い』単行本をならべてみると、「潮風」が明確に確認できるのは一巻、八巻、九巻、十巻であり、とくに八巻の表紙は88話と強くリンクしたものである。88話は水木の「風の音しか聞こえないな 静か」というセリフで始まっている(この台詞は最終巻で水木と二人乗りをする犀賀の台詞「静かだね! 風の音以外は!」としてリフレインされる)。この風はどんどん強くなり、最終ページで描かれるのは「風」のみである。対して二巻、三巻、四巻の表紙は無風状態のように見え、それは容易く静止した時間を錯覚させる。バーグマンを包み込む水玉表現は八巻の強く風が吹く百々瀬の表紙と好対照をなしている。そして最終話は、読めば読むほど風は止んでいるのではないかと思う。

 この、物語の終わりと〈海〉をめぐる思考にかこつけて、今一度の飛躍をお許し願いたい。「無風状態」とは、なによりも日本語ロックの草分け的存在であったはっぴいえんどの、通算三枚目の、つまりは解散前の最後のシングルのタイトルなのである。

  〝風がなけりゃ ねえ船長〟
  マストの風をたたんで 彼は今
  夜霧のメリケン波止場で 船を降りる

 正確には『さよならアメリカ さよならニッポン/無風状態』という二曲が並べられたシングルカットだが、このどちらのタイトルにも「終わりの時間」が滲んでいる。アメリカの音楽にも日本の音楽にも属したくないという彼らの立ち位置や、「この船を降りる」といったストレートな表現など、読むべき文脈は多いが、考えたいのははっぴいえんどがなにより「風」に表象された存在であったということである。彼らの代表曲「風をあつめて」が収録されたアルバムは『風街ろまん』だし、その他にも「颱風」「風来坊」そして「無風状態」といった楽曲がある。そしてこの「風」は、「アメリカ」という〈海〉から吹いてくる風でもあった。「風」が止んでしまった時、そこにあらわれる終りとは、解散のことでもあるだろう。しかし百々瀬が言ったように、それは新たな始まりでもあるだろう。
 無風状態で船を降りること。「さよならアメリカ さよならニッポン」と歌う時、彼らは一体どこに立っているのだろうか。それは陸でも海でもない、絶えず打ち寄せる波打ち際かも知れないし、水木が真っ直ぐに飛び込んでいったあの空白そのものかも知れない。その始まりからバンド名が示していたように、はっぴいえんどの詞世界はとにかく「さよなら」に満ちている。松本隆はロックに飲み込まれない日本語歌詞を作り上げるために、つげ義春永島慎二などの『ガロ』系漫画から影響を受けたと話しており、ファーストアルバムのアートワークは漫画家の林静一によるものである(そう、これは枇杷谷への目配せである)。「さよなら」を何度も歌わねばならなかった彼らと、ただそこにいるということが提示される『潮舞い』の世界。『潮舞い』は終わったのか? という問いは、ナイーヴに言えば、僕らは彼ら/彼女らとさよならできたのか? ということでもある。この同人誌がその反証になっている気もしなくはないが、最後に彼ら/彼女らと過ごした時間について考えたい。

三、海辺の街の時間

 さて、そろそろ僕が囲炉裏で潮風に思いを馳せる時間にも終わりが近づいている。もう少しだけ、あとちょっとだけ「まんが」の話をさせてほしい。
 今年の九月に、『アリスとテレスのまぼろし工場』という劇場アニメーション作品を観に行った。監督・脚本は岡田麿里で、制作スタジオのMAPPAとしては初のオリジナル劇場アニメだったらしい。ここからはあまり褒めないので申し訳ないのだが、正直に言えば、非常に前時代的な価値観を登場人物が共有しており(そこから例外的にはみ出たキャラクターは淘汰されてしまう)、いってしまえば「セカイ系の煮凝り」のようにすら感じた。なぜ急にこの話をするかというと、物語の始まりとなるSF的な基本設定が「海辺の街で時が止まり、閉じ込められ、その世界を壊さないように「変化」を禁じられる学生たち」というものなのである。『潮舞い』とここまで根本的なところでの世界観の共通性が見受けられながらも、こうも違う作品になってしまうのかという新鮮な驚きがあった。つまり、「海」というモチーフは置いておいても、ある学校に通う子供たちの日々に想像しうる「永遠」という時間設定はフィクションにおいて非常に相性がよく、手垢がついた設定でもある。例を挙げれば、時が止まり、少年少女がそこに閉じ込められる……という「永遠」をモチーフにしたSF作品としては今年発売された『ファミレスを享受せよ』というゲームがあり、これはSF的な捻りが効いていてとても面白かった(のだが、さすがにこれ以上脇道にそれる訳にはいかない)。『潮舞い』がセカイ系と呼ばれていたであろう、世界を個人のビジョンへと極端に中心化していく作劇からいかに外れているかを反面教師的に実感することができたのだった。
 もうひとつ、『潮舞い』と並べて読んでみたいのは、昨年の八月にいしいひさいち自費出版として刊行した『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』(以下『ROCA』)である。『ROCA』は少々ややこしい作品で、現在も朝日新聞にて連載中のいしいひさいちののちゃん』(前身の『となりのやまだ君』を含めれば三十年以上の長期連載)に登場する「吉川ロカ」という少女を主人公にしたいわばスピンオフ作品である。作品の序文には「これはポルトガルの国民歌謡『ファド』の歌手をめざすどうでもよい女の子がどうでもよからざる能力を見い出されて花開く、というだけの都合のよいお話です。」という作者の言葉が添えられている。主人公の吉川ロカとその友人のヤンキー柴島美乃の二人の少女の友情物語、と一旦は言っておこう。この文章の主旨としてどうしても物語の終わりとそこで描かれる〈海〉に触れざるを得ないので、そこはご容赦いただきたい。
 『潮舞い』のラストシーンは百々瀬とバーグマンが手を取りあって海に足を浸しているというものであり、『ド嬢』のアンチ・ラストシーン(と僕が勝手に呼んでいる【友情編】の第13話)もまた、神林が海辺でここにいない町田さわ子を想い、SNSのメッセージを送るというハッピーエンドと言っても差し支えないものだった。そして、『ROCA』のラストシーンであるが、極力ネタバレをせずに書けば、それは刹那的な、読者によっては無常観すら感じる結末である。作中で語られていた、切ないだけでない、儚いだけでないファドの感情表現「サウダージ」であるかもしれない。そのラストショットには二人は不在のまま、背景には〈海〉が広がっている。
 この「終わりの時間」にはしかし後日譚がある。今年の九月に続編となる『花の雨が降る ROCAエピソード集』が出版されたのである。しかし公式サイトには「続編ではありません。念のため。」と書かれ、そのあとがきには「作品はすべて(筆者注:単行本『ROCA』の)あとに描いた新作です。われながら未練がましいと思います。」と書かれている。たしかに作中の時系列で『ROCA』より後の時間に物語が進むことはなく、『ROCA』の余白を埋める形で物語は語られ、やがて『ROCA』のラストシーンの〈海〉が再び描かれる。筆者はこちらのラストの方により激情と寂寥を感じた(いしいひさいちは「あとがき」でフェリーニの映画『サテリコン』のラストシーンを意識したと書いている)。いしいひさいち自身が「未練がましい」と語るように、これは最早作者によって終わらせることができなくなってしまった作品なのかもしれない。フィクションはそれ自身が物語を生み出し、その終点に〈海〉がある。物語の終わり、旅の終わりとは、ただ道がなくなるだけなのかもしれない。行き止まりにたどり着いてしまったのなら、引き返すか、その〈海〉を見て、自分で物語を語ってみるしかない。
 もう全然『潮舞い』の話してないじゃないか! と言われればぐうの音も出ない。本当に本当の最後に、阿部共実が「終わり」を終わらせなかった漫画を一本だけ引いてこの長話を綴じることにする。それはRPGゲーム『MOTHER』シリーズの公式トリビュートコミック『Pollyanna』に阿部共実が寄稿した「大人も子供もおねーさんもポーキーも」という短編である。このタイトルは『MOTHER2 ギーグの逆襲』発売時のキャッチコピー「大人も子供も、おねーさんも。」に「ポーキー」というキャラクターの名前を足したものである。ゲームをプレイした人ならば、この時点でこの短編がゲーム本編に対して非常に批評的な位置から描かれているとわかる。なぜなら、「ポーキー」とは『MOTHER2』の主人公ネスのいじわるな友人であり、またラスボスの名前でもあるからである。つまり、最後にこの短編について書くということは、この短編を「阿部共実の二次創作」として読むということである。この文章が『潮舞い』のトリビュートとして書かれているように。
 この短編を初めて読んだときは、周りに収録されている作品に比べて、阿部共実の本気度を感じた覚えがある。いまいちど『Pollyanna』の目次を確認してみれば、阿部共実が描いた16ページはぶっちぎり最長である。ページを開くとポーキー対ネスたちの最終決戦の場面から始まり、ここのSFビジュアルの描き込みやダイナミックな構図は他の阿部共実作品でもなかなか見ることができない緻密さである。そしてこれがポーキーを主題にとり、最終決戦から始まる短編であるということは、阿部共実は二次創作として「終わりの向こう側」を描こうとしているということでもある。読者(≒かつてのゲームプレイヤー)にとって忘れがたいプレイ体験の最終部分つまりMOTHER体験の現在ともいうべき地点は非常に高度に、また再現性も高く描かれている。そして原作通りポーキーが捨て台詞を言って姿を消してから、読者にとっての未来ともいうべき創作された時間が始まる。そこでは阿部共実一流の水玉表現と余白とせめぎ合う台詞のふきだし(これもまた泡のようだ)によって漫画表現のレイヤーが一気に更新されていく。そして、その後はポーキーの一人語りが泡になっている「未来」の時空と、ポーキーが思い出すネスと過ごした「過去」が交互に描写されていく。その溶けあった時間を彼はこんな呪文によってつくりだす。

  PK
  サヨナラ!
  だ!

 これが阿部共実が二次創作という魔法によってポーキーにあたえた呪文である。とてもセンチメンタルな短編ではあったが、筆者はこれを読んだとき一人のプレイヤーとして救われた気がした。僕も彼にずっと「PKサヨナラ」を言ってあげたかったのだ。これは文字通り、未来を、新しいフィクションを描くための呪文である。そして思い出してほしい。百々瀬もまた、おなじ呪文をバーグマンに唱えていたのではなかったか。

 最後にバーグマンへのオマージュをひとつ。
 ここまで何度もあの最終話を、バーグマンの台詞を思い返してきた。そして、『潮が舞い子が舞い』というタイトルについて考えてきた。ついつい人は百々瀬の髪を揺らす潮風が気になってしまうけれど、ほんとうは、潮風は吹いている必要すらないのだ。舞っているだけでいいのだろう。それはダンスであり、百々瀬が言ったようにつねに終りがあり、またつねに始まりがある。 『MOTHER2』の話をしたので、もうひとつだけ。すべての物質、すべての生命はダンスをしているのだ、というだけの『EVERYTHING』というゲームがある。プレイしていると、木やライオンや惑星がくるくる踊る。そしてたまに哲学者の朗読がどこからか聞こえてくる。でも別に聞かなくてもいい。そこではすべてがダンスをしており、終わりもない。きっとバーグマンならこんなまわりくどい、やっと寄り道が終わったかと思ったら今度は元の道を見失ってしまうような、結末の見えない文章も笑ってくれるんじゃないかと思う。あの最終話が白い光のなかに(よく考えたらそれは印刷された紙であるはずなのだけれども)ひらかれているほど、彼女たち二人のクィアな未来の可能性を思えば思うほど、ずっと坂道を駆け下りていくあてどない空白に進んでいく水木のその後を祈ってしまう。水木は一つの理想の男の子であったかもしれない。それ故にいまここにないより良き未来の空白を背負って旅立たざるを得ないのではないかとも思う。

 

Pollyanna

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