純粋なのは不死ばかり

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あっけからんとした文章と戸惑い。金川晋吾『いなくなっていない父』

f:id:is_jenga:20230902081949j:image 金川晋吾『いなくなっていない父』成田空港までに読みおわった!いま読むべくして出会った本な気がする。この本を読む確固たる理由はないままに(そしてそういう曖昧さに負けてよく読みかけの本を積んでしまう)、ただ気になるから読むというのができた。電車に揺られながら読み切ったのも良かった。以下感想。

 

 今日は金川晋吾『いなくなっていない父』を読みました。先日の刊行記念イベントの映像作品上映会までに読めず、映像作品を観てから読む形になりました。イベントでは対談での「失踪とは「失踪」の意味が失踪すること」みたいな話が面白かったけど、この本はもっと繊細な文章が集まってできていた。この本は一言で言えばエッセイなのかもしれないけど、金川さんが"いなくなっていない"父を撮った写真が随所に差し込まれ、装丁され、そしてそれを撮ることへの困惑とおもしろさが語られる。やや困惑の方が多い。自分はなぜ撮るのか?わからないかもしれないが撮ってみよう。こんな文章が読みたかった。

 「私がこういう状態にあったときに、父のことが起こった。そこで私はこれ幸いとばかりに、父を撮ってみようと思ったのだった。」やっぱりあっけからんとした文章だ。しかしやがて「写真を撮ることは父への問いかけを休止させること」「判断を下さずに見るということ、見ることに留まること」といったほのかな芸術論(青山二郎の「眼の引越」とかも連想したけど、これは当たらない)というよりも問いと体験が語る。溢れる。散文ってこういうものなのかもしれない。そして勿論父親の話がすごくて、NHKの富士本さんも丘山さんもすごすぎる。 「丘山さんと富士本さんがカラオケで録音したラップ」って何!?

 213ページの、金川さんが富士本さんに「お父さんは苦痛を感じているんじゃないですか」と言われる場面がハイライトだと思った。富士本さんの関心が金川さんの父から金川さん自身へ移って行ったように、金川さんの文章も富士本さんから丘山さんへと移っていく。そしてそこに三十代の男性としての自分に戸惑っているような語りが紛れ込んでいるのが興味深かった。やっぱり自分が今読むべき本だと思ったし、たった4ページで結婚やジェンダーについての現段階の金川さんの考えをサラッと話している最後の文章は、どこか贈り物のような気がして嬉しくなった。なんてやさしい本だったろう。こんな父もいる。