純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

映画はどこからやってくるのか?『瞳をとじて』

f:id:is_jenga:20240221154624j:image 映画を観ていて、奇跡というものはこのように起きるのかと感じたのは生まれて初めてだった。生涯でこんな映画体験をすることができるとは。前半こそ、このテンポで169分いくのか……と思って観ていたが鮮烈という他ない「海」が飛び込んできて(あのゴールポストは生涯忘れないだろう) 、そこからはもう海を目指して姿を消した登場人物のように海からの風に吹きさらされながらただただ体験するしかなかった。記憶をたぐっていくうちに言葉は消滅し、そこに残るのは指の言語と言ってもいいようなロープの結び方やあのアナの"呼びかけ"だけである。この台詞は特に「映画的記憶」としか言いようのない圧倒的な文言であり、これは記憶を巡る、そして映画として私たち観客を巡る(それこそ『ミツバチのささやき』冒頭の映画巡業車のように)、運動する「映画体験」そのものである。映画についての映画でありながら、圧倒的に個人的な作品であり、また同時にスペインを、「私たち」を、映画によってどのように語るか?という映画でもある。だからここには映画史のような正統性はないと思う。あるとしても、それは映画が作り上げてきた美の総体のようなものであるだろう。

 昨日観た『ミツバチのささやき』もそうだったけど、圧倒的な表現に晒されるとなんでこんなに怖く感じるんだろうか。個人的には生涯で最も奇跡的な映画体験だったので、多くの人に観てほしい。ただ、『ミツバチのささやき』だけは観てから行ってほしいと思う。

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