純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

記憶を再生する。『ミツバチのささやき』

f:id:is_jenga:20240221152639j:image ビクトル・エリセ監督が31年ぶりに新作を撮ったというので、その前に見返しておこうと思って観た……のだが、映画を観ることは記憶を失ない、忘れていたことを発見することだという体験にまたしても愕然とした(映画と記憶の話は『牯嶺街少年殺人事件』のパンフレットにあったコラムの受け売り)。

 古い映画を観て、感動して、何年もたってからまた見返すと、それを忘れていたことと覚えていたことが同時に浮上してきて、90分の映画の時間とそこから自分が過ごしてきた数年、または数十年の時間が溶け合っていくような気持ちになる。映画の内容についていえば、多分昔に見た時は大学生くらいだったと思うけど、こんなに怖い映画だったのかと驚いた。アナがフランケンシュタインを見る目はむしろ希望に満ちているが、その周りにいる大人たち、両親の表情の暗さ、家の中、食事の場面の暗鬱さ、そして子供達が駆けていく荒野、線路を疾走する機関車……スペイン内戦が収束したあとの暗黒時代が色濃く映し出されていて、観客はアナのキラキラした目にフランケンシュタインの向こうの残酷な世界がどんどん侵入していくことを追体験する。

 しかし、この作品が名画である所以は(名画と描くと絵画のようにも読めるが、全くもってこの映画の陰影は美しい)、やはり最後にこだまする「私はアナよ」という呼びかけであり宣言にある。この言葉は公開当時のスペインにおいてどのように響いたのだろうか。私はここにいる、ここに生きている、という呼びかけは映画という増幅装置を通して観客の心を揺さぶる。大きくも小さく、恐ろしいほどの強度を持った作品。こんなものを撮ってしまったら、それはたしかに他の作品を撮れなくなってしまうような気もする。

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