純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

物語は誰のものか? 『小説家の映画』

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 とってもとっても良かった。日雇い早上がりしてそのまま映画館に行って、最初の20分くらい爆睡しちゃったけどすごい好きだった。ホン・サンスはずっと気になっていた監督で『逃げた女』とあともう一本くらいみた覚えがあるけど掴みどころがなくて、でもそれがどこか楽しげで知らない世界が広がっているような気がしていた。韓国映画といえばノワールとか近現代政治スリラーを好んで観ていたので、小津安二郎みたいな人物同士の会話で淡々と小気味よく進んでいく構成は新鮮だった。

 劇中でも「物語らしさ」の議論があるけど、『アフターサン』とか『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』みたいな、「映画らしさ」を抜け出して新しい世界に向かう軽やかな映画だ。小説家のジュニの振る舞いはすこしエキセントリックだったりそれでいて怒りを秘めていたりするのだが、それを誇張することも突き放すこともないカメラの距離感が心地よい。このカメラの距離感を感じさせるという意味で、やっぱり優れたドキュメンタリー映画のような感覚をもたらすし(それがパンフで監督が語っていた「自然さ」の追求なのかも)、中国の名匠ワン・ビン監督の存在が消えてしまったかのような不思議なカメラも思い出す。そして何よりあの不意打ちのようなズームよ!あれを「意図のある演出というよりも文体、韻のようなもの」と書いてるレビューがあって、なんかあれ不思議だしちょっと不気味なんだよね。作品に刻まれた、作者がつい残してしまった痕跡のようで。

 しかし、なんて心地よい映画なんだろう。「小説家が映画を撮ること」をどこか無謀な、愚かな挑戦だと感じてしまう先入観が自分の中にあって、映画ファンとしての思い込みや思い上がりを自覚させられた。創作行為に垣根はなく、それは人生をどう生きるか、「次は何をやる?」というシンプルな問いになっていたはずだ。しかし映画は小説家から元女優のギルスにその「映画」自体、もっと言えば「映画のマジック」そのものを手渡して終わる。この素晴らしい幕切れに感動したし、「小説家の映画」を手渡されているのは他ならぬ観客なのだと思う。