純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

一人でも多くの瞳を。『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』

f:id:is_jenga:20231030152509j:image ラスト、80歳のマーティン・スコセッシ監督の瞳にデヴィッド・バーンと同じ怒りを観た。歴史について考えている人にはぜひ観てほしい作品。こんな映画を観ることができたことに、今はただ感謝の気持ちで一杯です。原作読んでもう一回観に行きたい。

 今年はスピルバーグ、スコセッシ、 ポール・シュレイダーダリオ・アルジェント、クローネンバーグ、リドリー・スコット宮崎駿の新作が公開されるという眩暈がするような年だが(ここに北野武を加えてもいいかもしれない)、その中でもこのスコセッシの新作は自国の歴史(そして現状)に対する怒りに満ちており、そしてその磨き上げられた表現技法が(控えめですらある)物語を伝えるために如何なく発揮された傑作だと思う。一昨年公開されたリドリー・スコットの『最後の決闘裁判』もまた歴史を扱った極めて現代的な映画だったと思うが、そこにやはり入り込んでしまった歴史を扱うが故の距離の遠さと、映像の持つ暴力的・残酷な快楽のようなものが今作ではかなり軽やかに乗り越えられているように感じた。『決闘裁判』の重厚さとそれに伴う苦痛に対して、端的に言って『キラーズ〜』はまず異常に面白く、体感時間が恐ろしく短い。昨今映画がどんどん長尺化しているが、ここにスコセッシはひとつの解答を出してしまったように思う。長く語る必要がある物語ならば、異常なテンポの良さと速さとともに語り切るしかない。途中で語りをやめることなど許されない。

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 かなりの登場人物が出てくるが、それが素晴らしい手際の良さでロバート・デ・ニーロにより懐柔され、または殺されていく。非常にドライブ感のある作劇自体がこの出来事の恐ろしさに一役買っているが、それがやがて救いようがないほどに愚かな男ディカプリオの内面に亀裂を作っていく……スコセッシお得意の暴力と信念(ここでは愛)に板挟みになって破滅していく男が描かれているのだが、このディカプリオの一番恐ろしいところは、その引き裂かれた二面性にどこまでも気づかない、もしくは自分を騙し通してしまうところだ。アメリカ合衆国の介入者であるジェシー・プレモンスとともに迎えるディカプリオのラストショットの空虚さは本当にすごい。その意味ではキングの"善なる殺戮者"という振る舞いを受け継ぐことに成功した/侵食されたといえるのかもしれない。

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 もう映像の密度がすごすぎて息つく暇がないのだが、度肝を抜かれたのは後半で登場するブレンダン・フレイザー!『ザ・ホエール』を観た後の自分にとってなんて恐ろしいものを出してくるんだと思った。仮釈放のようなタイミングでディカプリオを迎えるフレイザー達の待つ夜の屋敷があまりに恐ろしくて……そして自分はここまでモーリーについて一言も触れず、また触れることができないでいる。リリー・グラッドストーンのその魅力については言うことないのだが、彼女の瞳のもつ怒りとその向こう側を読み取ることができなかった。そしてそれは彼女の瞳そのものが男達に魂まで懐柔されてなるものかという抵抗だったのではないか。予告でも使われていた「君の肌は美しい、なんて色だい?」「私の色よ」というやり取りは差別についての描写であるとともに毅然としつつ相手に自分を読ませないようにし続けるモーリーの生き方のようにも思う。

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 僕の偏愛するゲーム『レッド・デッド・リデンプション2』のちょうど後、アメリカという国が近代化し、その抑圧のシステムを完成しつつある時代を舞台にした『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』のキラーズとは、やはりそうして作られた国に生きる私たちも含まれているのだとスコセッシが言っているように感じてならない。ラストに登場するスコセッシも役に徹し、多くは語らなかった。しかしこれがFBIが誕生した一件目の事件としてアメリカが語り継いだ「事件」であり、ここにエンターテイメントとして人々の死を消費してきた「映画」の罪があるのだとしたら、『沈黙』のように映画によって歴史と物語の罪と贖罪を描いてきたスコセッシの、やはり到達点だと思う。スピルバーグがその映画愛(と恐怖)を一人の架空の人生に閉じ込めた『フェイブルマンズ』とどこか対極にあるような、徹底したアメリカ映画だった。

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 これと『HUNT』や『福田村事件』がこの同時代に撮られていることを考えずにはいられない。