純粋なのは不死ばかり

文を隠すなら森。

旅を増幅する装置としての王国病院、テレビドラマ。多和田葉子『星に仄めかされて』

 

 多和田葉子『星に仄めかされて』を読んだ。

 前作『地球にちりばめられて』はHirukoが旅をして様々な人々に出会う話だったけど、今作は言葉を失ったSusanooにみんなが会いに来る。コペンハーゲンまでのみんなの旅が、重なりながらも別々の認識や言語であるという語りの差異が強く印象づけられていた。それが最後のSusanooの語りで集結し、分裂した言葉の衝突となっていくところが山場なのだが、「個々の認識がぶつかり、理解しえないまま新しい認識となる」ダイナミズムに夏目漱石の『明暗』あたりを連想した。それというのも最近調べ物をしていてミシガン大学多和田葉子漱石に関する基調講演を行ったという記事を読んだからかもしれない。どこかで読めるのかな。Susanooの議論の攻撃性に古事記スサノオがオーバーラップしていく点も興味深い。

 そして驚いたのは、今年の夏に自分が映画館で一気見した、トリアー監督のドラマ『キングダム』の病院がそのまま舞台として用いられているところ。さらにはヘルマー医師ならぬベルマー医師やあの兄妹まで登場する。それが上手く効いているのか、前作ほどに旅の広がりはなくとも巨大な王国病院のスケール感やフィクションの中に入り込むようなSF感はよく出ていた。その構成とともに誰かの語り、言葉が別の誰かの言葉によって語られ、話者が次々と交代していく感じは、例えば古川日出男みたいな多声的で言葉をどんどん受け継いで回していく流転の物語として機能している。特に今作は三部作の真ん中であるし、最初と最後の「ムムン」を除いて語りが同じ人物に戻ってこない。これも物語(怪異)に人物たちが引き回される『キングダム』と通じ合う所があるかもしれない。

 Hirukoは国を失い、帰る場所を持たず、しかしどこか楽天的にその時の地球の同乗者とともに移動し続けるのが旅なのだ。旅をしながら旅が始まってしまう。そんな一冊。次作『太陽諸島』はまだ文庫化されていない。どんどん進んでいこう。多和田葉子を読むと、旅したくなり、僕らは旅をしてるとわかる。

キングダム Ⅰ

キングダム Ⅰ

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